アメリカが日本を、取り戻す。

山崎行太郎インタビュー アメリカが「日本を取り戻す」!

―― この号が発売される頃には、安倍・自民中心の政権が発足していると目されています。少し気が早いですが、発足する第二次安倍政権の性格、そしてこの政権が抱える問題点をお伺いしたい。
山崎 相反するようなことを言うが、安倍政権下においては、「従米」派と「反米」派それぞれがその限界を露呈することになるだろう。そしてその原因は同じであって、それは思索の不在なのだ。日本人とは何者であって、何者になりゆこうとしているのか。根源的に日本人とは、日本国家とは何かと問いただすことがないために、ある者は従米に走り、ある者は安易な反米に走る。
―― 少し唐突に聞こえるご発言です。順を追ってご説明願いたい。まず、「従米」派の限界が露呈するとはどういうことですか。
山崎 安倍・自民党新政権が政権に復帰するだろうが、金融緩和、TPP参加と、アメリカの要求するままに政策を進めていくことを選挙中にも公言している。実際、総理になる前に安倍氏は「総理になったらまっさきに訪米して首脳会談を行いたい」と打診したそうだ。民主党が壊した日米同盟を復旧するとのことだが、かつて安倍氏は総理だった時に「戦後レジュームからの脱却」を掲げていた。「戦後レジューム」とは、GHQ占領下において、日本国憲法はじめ、日本の自主独立を封じるような体制であり、そこから脱却するということは、アメリカからの自立、同盟を維持するにしても対等な同盟関係構築のことのはずだ。
 ところが、安倍総裁は「国防軍の創立」など威勢の良いことは言っているが、現在のような、自衛隊が米軍の指揮下に入っているような状況で国防軍としたところで、それはアメリカの指示のまま、自衛隊が世界各地に出かけていってアメリカの若者の代わりに、日本の若者に死んでいただきます、と言っているに等しい。
 経済にしても、金融緩和を訴えているが、その内容を吟味すれば、要するに日本国民の財布に手を突っ込んで、それでもってアメリカ国債を買い支えます、と宣言しているようなものだ。当然アメリカからの覚えはめでたいだろうが、問題は、このような売国的政策を掲げているにもかかわらず、前の民主党が悪かったからというだけの理由で、また自民党に政権を与えてしまう世論であり、世論を善導すべき知識人の不在だ。
―― とはいえ、民主党はあまりに国民を裏切りすぎ、その怨嗟が民主党の壊滅的状況を招いた。自業自得といえばそれまでですが。
山崎 私は死人の墓の上で踊る趣味はないので、死んだ人たち、つまり、落選したり引退に追い込まれた人たちのことをここではあげつらわない。死屍累々で踊る場所はたくさんあろうが、そこで踊るのは上品ではない。民主党の死者たちは死者としてふさわしい礼儀をもって見送るべきだ。
 大事なのは、民主党であろうが自民党であろうが、アメリカにとっては関係ないということだ。アメリカは日本の政権与党がどこだろうが、アメリカの国益を押し付けてくる。そして、歴代の政権はそれを呑んできた。その中には、臥薪嘗胆の思いを込めて苦渋を飲んだ政権もあろうし、自分が何をやっているのかわからずに飲み込んだ白痴的政権もあった。いずれにせよ、アメリカの意図に従い、逆らえずにいたという政治的現実、これこそが「戦後レジューム」だ。これはアメリカが特別に悪いのではなく、国家とは本質的に自らの国益を最大化するためにありとあらゆる手段を講じるものなのだ。
ところが、安倍氏の言う「戦後レジューム」はせいぜい「東京裁判史観」や「日教組批判」で、日本の自立自尊にまで思いが至る知的能力が欠けている。
「日本を取り戻す」、それが自民党選挙公報だったが、ここには主語が抜けている。主語がなくても文脈の中から主語が察知されるというのは日本語の麗しい文化だが、同時にそれは、「政治的曖昧さ」の温床となる。確かに「自民党が日本を取り戻す」と言えば、「日本は自民党の所有物ではない」と反発を受けるだろう。おそらく、「日本が民主党のせいで本来の日本のあり方でなくなってしまったので、本来の日本の姿を取り戻す」というような印象を与えることを期待してこのキャッチコピーを作ったのだろうが、その実態は全く違う。安倍氏が言っているのは、「アメリカが『日本を取り戻す』」という、対米屈従外交宣言なのだ。鳩山由紀夫氏のような、ちょっと頭のおかしい人が普天間基地辺野古移設反対と言い出して日米関係がおかしくなる状態はこりごりだから、アメリカの言うとおりに日本政治を動かす「優等生」を日本の首相にしましょうということだ。

―― なるほど、「アメリカが日本を取り戻す」。安倍新政権は「戦後レジュームを脱却」するどころか、GHQ占領下のように、「戦後レジューム」をさらに強化して、絶対に脱却できない方向にいくわけですね。
山崎 馬鹿が権力を握ると国民は必ず不幸になるのだ。安倍氏は純朴に「戦後レジュームからの脱却」と念仏のように唱えているが、それが本質的に何を意味しているか、自分が何を言っているのか、理解できる能力がない。せめて周囲のブレーンがしっかりしていればいいのに、どうやら、このブレーンたちも能力的にお粗末極まる。だから竹中平蔵をブレーンに持つ「維新の会」との連携などと言い出し、結局、アメリカ一人勝ちを目論む新自由主義者にいいようにされる。竹中氏ほどの「お勉強がよくできる頭のいい売国奴」であれば、10分もあれば安倍氏とその取り巻きを洗脳できるだろう。
―― 新政権が「従米売国」に行く事はよくわかりました。それでは、「反米」派も限界が露呈するとはどういうことでしょうか。
山崎 今、元外務省で元イラン大使だった孫崎享さんの「戦後史の正体」という本がベストセラーらしいですね。こういう本によって、確かに、とりわけネット上ではアメリカによって葬られていった日本の愛国的政治家たちがいた、という言論は広まった。田中角栄の系譜で、直近では鈴木宗男氏、小沢一郎氏が不可解極まる政治謀略に巻き込まれた。とりわけ最高裁までが小沢氏の政治的抹殺に関与したのではないかという問題については拙著『最高裁の罠』(弊社刊)を読んでいただきたいのですが、こうした愛国的政治家がマスコミと政治権力によって放逐されてきた、そういう認識はずいぶん広がってきた。
 しかし、それだけではダメなのだ。私はサルトルはほとんど評価していないが、彼もひとつ正しいことを言った。アンガージュマン、「政治参加」あるいは「社会に積極的に関わっていくこと」だ。
 サルトルが考えたのは、人間の本質を自分の内に求めるのではなく、自分という存在そのものを社会の中での関係性で捉えるということだ。自分とは何者か、そんなことをいつまでも考えていたって仕方がない。自分とは親子関係、友人関係、社会関係の中から作られるものであって、自分を変えたいのならば、その「自分」を構成している関係そのものを変えることから始まらねばならず、それはすなわち政治参加なのだ。
 安保闘争に参加していた年代の人ならば懐かしく、セピア色の思い出として見えてくる議論かも知れないが、ここで言いたいのは、社会運動、政治運動は必ず死ぬが、思想は決して死なないということだ。政治参加という思想自体は今も生きており、今、活き活きと活動することを要求している。たとえば、政党が信用出来ないし政治家は保身のためにころころ政党を移動するから、これまた信用出来ない、というたぐいの政治不信が横行している。しかし、それならば、政党でもなく政治家としての綺麗事でもなく、立候補者そのものの人間性を見抜き、その人間性に惚れ込み、応援をするという政治参加こそが大事になってくる。
 実際、私は小沢一郎という政治家に惚れ込んでいるから断固支持しているし、今回の選挙では小沢系の、ある候補者を応援し、その人の選挙活動に協力してビラまきまでした。これは、一人の人間として一人の人間を信用するという決断であり、その結果たとえ裏切られたとしても、それは私に人を見る目がなかったというだけのことだ。応援したという行為の結果は自らが引き受けることになる。
 選挙の時になってぼんやりと候補者を眺めて、口当たりのいいことを言っているからというだけの理由で、人間そのものを見定めず投票して、それで裏切られたら「政治家なんて信用出来ない、わたしたちはひどく裏切られた」などと言っているのは、甘えにすぎない。
 ところが、今、孫崎氏の著書などを読んで「アメリカけしからん」と思うような人たちは、そのために何か行動するだろうか。たとえば、本気で脱米自立を訴えている候補者のために、応援に行ったり、ボランティアに駆けつけたりするだろうか。日常の仕事が忙しくてそんなこともかなわないならば、百円なり千円なり、これぞと思う候補者のために募金をするだろうか。
 結局、行動をともわない思いは妄想でありその場の思いつきであり、本質的思索ではないのだ。
 そもそも、私は孫崎氏の著作自体に対して、懐疑的だ。確かに表向きは「反米」で、有馬哲夫氏や*****氏やら、アメリカ公文書館で公開された文書を調べた先行研究をいいとこ取りで取り込んで、「反米」のオーラを出しているが、その実、結局、中国には尖閣は譲り渡して、世界政治をかき乱す張本人のイランと仲良くせよという、実態は親中・親イラン言論だ。こんな本質的に売国的書物をありがっているようでいいのか。
 結局、今は偽者の時代なのだ。「反米」と言ったところで、それは一過性の気分に過ぎない。「中国が尖閣を取りに来た!けしからん!」と言っていたのが180度転換して名詞を取り替えただけで、「アメリカが沖縄をいいようにしている!けしからん!」と、外部的刺激に反応しているだけで、それは受動的なもので、日本の自主独立を目指す能動的なものではない。
 結局、「脱米自立」「日本の自主独立」のためには、「日本は独立戦争を戦うんだ」という自覚には至らない。

―― ようやく、冒頭のお話の言わんとするところが見えてきた気がします。結局、新安倍政権でアメリカにいいようにされるし、一方、政治参加なきネット言論は当然政治に影響を与えないから、ほんとうの意味での「戦後レジュームの脱却」はいずれにせよ不可能なのですね。
山崎 このままだとそうだろう。結局、人間というのは生活に流される。そりゃそうですよ、生活しなければならないんですから。だから税金は少ない方がいいし、政府が金をばらまいてくれた方がいい。それが理想だろう。
 でも現実はそうは言ってられない。少子高齢化は進む一方で、税収は少なくなる一方、社会保障という名の老人増加問題に対処しなければならないし、老人に「お前ら今すぐに死ね」と言うのが一番簡単だけれどもそう言ってしまえば票が取れない。かといって、若者たちに真正直に「お前ら、投票してくれる老人が楽しく暮らすためにてめえら投票しない馬鹿な若者の給料から年金を差っ引くから、てめえら若者は苦しんで死ね」と本当のことを言うわけにもいかない。まさにゴルディアスの結び目のような難問に、日本政治は直面しているわけだ。だが、老人が栄えたら、国は滅ぶだけだ。
―― しかし、「日本に生まれてよかった」と言って死んでいく人がいなければ、その背中を見ている若者は、特に能力のある若者はさっさと日本を見捨てるのではないですか。
山崎 それが、日本自体がアイデンティティー・クライシスに陥っているということなのだ。
 自民党の「日本を取り戻す」を私は揶揄して「アメリカが『日本を取り戻す』」と言ったが、それでは、日本人が「日本を取り戻す」とはどういうことなのか。そもそも「日本」とは何か。われわれは「日本」というものを知っているつもりで言論を展開しているが、本当にそれはなにかわかっているのか。日本とはいつから日本なのか。それは伊邪那岐伊邪那美が天の沼矛でもってかき回してオンゴロを作った時からなのか、それとも神武東征の時なのか。
 根源的に問うべきは、われわれはなぜ、どのようにして、今あるようなわれわれであるのか、これである。
 『古事記』では死神と化した伊邪那美が「一日に千人の人間を殺す」と宣言した時、伊邪那岐は「ならばこちらは一日に千五百人産もう」と宣言し、ここに、日本社会の根源的命題である「人口増加」という枠組みが示された。ところが、現代、戦乱や疫病のためでなく、『古事記』以来の、人口の自然減少、すなわち少子高齢化という事態が発生した。
 この問題に対して移民だの少子高齢化対策などと表面的な議論がされているが、これは実は『古事記』成立以来の、日本文明の根本的な構造転換にわれわれが直面しているということなのだ。
 確かに、能力のある人間は世界で活躍し、己の能力がどこまで世界で通用するか挑戦すればいい。しかし、国家というものが自分の財産を守ってくれるだけの存在と勘違いして、日本が守ってくれないならば海外に脱出するなどという認識であるとしたら、それは日本のみならず、自分という存在すらも理解していないということだ。そんな人間はどこに行っても通用しない。
―― 国際政治の荒波にもまれ、国内政治は乱脈を極める現代ほど、われわれは何者であって、何を目指すのかが根源的に問われている時代はない。
山崎 政局に影響を与える存在として、たとえば、ナベツネ読売新聞社長や、同じように間もなく死ぬから名前を記憶する必要もない経団連会長がいるが、彼らは自分が何を求めているのか、本質的にわかっていないのだ。
 彼らは人間が生まれて死ぬという本質的空虚さに気づかず、あるいは目を背けて、その空虚をただ紙幣を増やすことで埋めようとする。憐れむべき空虚な魂だ。もちろん、生きるためには金が必要だ。だが何かのために生きるのであり、金は手段であり目的ではない。その「何か」の存在そのものを見失っていること、それが戦後日本人の悲劇の根底なのだ。

―― 今回の選挙では、争点は曖昧になり、日本という国家そのものが問われることはなかった。
山崎 問題は、現代は、根源的思索がない時代だということだ。書店に行ってみれば、ありとあらゆる問題に対しての「答え」が、たとえば新書の形でたくさん出ている。だいたい、山手線を半周している間に読みきれる薄っぺらの内容で、それで何事かについて理解できた気がしてしまう。
 現代日本人ほど、ありとあらゆることを知っている、あるいは知りうる環境にある人間は歴史上、いまい。同時に、現代日本人ほど、知的貧困にさらされている人間は、歴史上、いまい。
 なぜなら、知とは知識ではなく知恵のことであり、現代日本人は知識は豊富だが、それが何を意味するか、その知識をどのように使えばいいのかという知恵がないのだ。
 それは、Que sais je?(私は何を知っているのか)と問いかけたモンテーニュ、あるいはソクラテスの知恵がないということだ。われわれは何かを知っている気になっているが、本当にそれが何であるか知っているのだろうか、と、自らを反省するという知恵を忘れてしまった。知識の海に溺れてしまっている。
 小林秀雄は敗戦の色濃い中、『無常といふこと』の中で、「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない」とさらりと書いた。
 無常とは、『平家物語』のような「すべてはうつろいゆく」というような感傷的なものではない。自分とは何者かがわからない、なんで存在しているのかもわからない、にも関わらず生きていかねばならないという痛切な苦しみの叫び声のことだ。それは無明と言ってもいい。
 結局、今回の選挙は、本質的な日本政治の転換点とはならないだろう。なぜなら、そこには日本とは何かという根源的思考までさかのぼった政治思想が完全に不在だったからだ。
 思想なき政治はすぐに破綻する。だから、2013年には、安倍氏内閣総辞職するか、7月頃に衆参同時選挙となるか、いずれにせよ、短命政権となろう。
次の総選挙こそ、日本国民全員が、「どのような日本をわれわれは欲するのか」という、根源的問いをつきつけられることになるだろう。