●各位へ、コメント欄の書き込み、ありがとうございます。

●各位へ、コメント欄の書き込み、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。(from-山崎行太郎)
●キー坊さん、資料、届きました。返事が遅れて申し訳ありません。ありがとうございました。尚、昨日、初めて、「沖縄を考える」コミュにおける貴兄の膨大な書き込みを読みました。鋭い分析に深く感動しました。とても勉強になりました。そのうち、一つの論文にまとめたらどうでしょうか。今後ともよろしくお願いします。(from-山崎行太郎)
●福岡のNさん、お電話ありがとうございました。貴重な海外体験の話など、とても勉強になりました。(from-山崎行太郎)
●以下は、「たんこ」氏から、ご教示いただいた鴨野守の論文のコピーです。当コメント欄にも、コピペし参考までに採録しておきます。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2836&forum=1&start=1740

投稿日時: 2008-7-5 23:55

登録日: 2005-8-5
居住地:
投稿: 621 No.133369:日本再生NWより



沖縄戦「集団自決」から63年真実の攻防第3部<17>(世界日報2008/7/3)


■すさまじい“同調圧力”一方的「沖縄戦」描写が背景に


記者(鴨野)が沖縄戦集団自決問題の取材に取り組み、丸二年がたとうとしている。いろいろな人々との出会いがあったが、鮮烈なエピソードを一つ紹介したい。



それは今年三月上旬、座間味島である一人の老婦に取材中の出来事だった。彼女は六十三年前、米軍の容赦ない攻撃にさらされた座間味島の様子を語ってくれた。


――昭和二十年三月二十五日夜、伝令が来て「忠魂碑前に集まりなさい。むこうで皆死ぬから、奇麗な服を着けてきなさい」と言われたが、はだしではボロボロだったのを覚えている。「だって、服の端が木に引っ掛かっても、戻って外す時間もない。そんなふうに逃げ回っていましたから」


幼子と避難していた時のこと。村の長老から「敵に見つかってはまずいから、子供を窒息させて殺しなさい」と迫られた。「絶対できない。あなた方から先にやりなさい」と精いっぱい反論した。何人かの島民が子供や孫を崖(がけ)から突き落とし、「自分たちも目隠しして後ろ向きに崖から飛び降りる」と言って出掛けて行った。だが、しばらくして家族を殺すことも自ら死ぬこともできずに戻ってきたという。


間もなくして番所山で、梅澤裕隊長と出会う。「元気で良かったね」と喜ぶ隊長にうれしくて抱き付いた。十数人の村人と一緒にいたが、「おれたち、どうせ死ぬならば、米軍に耳を切られたり、女性たちが強姦されたりするよりは、日本軍の手で殺してくれ」と頼んだ。すると梅澤隊長は「ダメだね。まだまだ早い。われわれが戦争に来ているのだから。生きられるだけ生きなさい」と拒絶した。


彼女は生き延びることができたが、戦時中、急性肺炎で三歳の子を亡くした。戦後、貧しい中で生まれた娘を懸命に育ててきたという。その老婦人の顔に刻まれたしわと柔和な笑顔から、過酷な運命に恨み言を言わず、じっと耐えてきた人間の強さをうかがい知ることができた。


そんな戦時中の大変な思い出に、静かに耳を傾けている最中に突然、あいさつもなくヒステリックな声が縁側から飛び込んできた。「何でテープなんか録(と)っているんですか。母はぼけていますから、もう帰ってください!」

瞬時に老婦の表情が曇って、沈黙した。苦労して育て上げた実の娘から「ぼけている」と言われた母は悲しげだった。吐き捨てるように言って去った娘の後から、今度はその夫が出てきて、「この村が島を挙げて、教科書問題で国に対して異議を唱えているというのに、あなたがかき乱しているじゃないか」と、記者を案内した宮平秀幸氏を難詰した。


少数派の意見を許さない「同調圧力」を、身をもって体験したひとときだった。勇気を持って新証言を口にした人々に、とりわけこの圧力は激しかった。
本当は、梅澤隊長は村幹部に対し自決を思いとどまるように語ったと証言した宮城初枝さんも例外ではない。娘の晴美さんは『母の遺したもの』(旧版)の後書きで、「母の“新たな証言”に怒り、母を厳しく追い込んだ人」がいたと、わざわざ書いているほどだ。その晴美さんもまた、その本を出すことで、沖縄の「同調圧力」にさらされて屈してしまうのだが〓〓。


その圧力は、「赤松隊長のニセ命令書」に言及した照屋昇雄氏宅には相次ぐ無言電話という形で表れた。本部壕(ごう)での梅澤隊長と村幹部のやりとりを証言した宮平秀幸氏の場合は、三月に宜野湾市で講演すると知れるや、さまざまな嫌がらせという形となった。


この圧力はどこから生まれてくるのだろうか。その“源流”には、地元メディアが描き出す「沖縄戦」のイメージがある。戦争を知らない多くの県民は、そこで描かれる日本軍の残虐非道ぶりに驚き、その怒りの矛先は政府や異論を唱える人たちに向かう。




また沖縄をリードする六十代から七十代の人たちの戦争体験のほとんどは、「被害者」としてのそれであり、戦争に主体的に関与し、決断、行動した体験はない。二言目には「強制された」「命令された」という言葉が口を突く。


こうした幼いころの戦争体験を抱く者の鬱積(うっせき)と、戦争を直接知らないが、メディア報道で知る「沖縄戦」への憤りが、「同調圧力」の源泉にあるように思えてならない。そして、これを悪用する勢力がいる。


阪高裁で六月二十五日、沖縄戦集団自決訴訟控訴審第一回口頭弁論が開かれた。この訴訟の行方は、この沖縄戦を、日本本土が沖縄を犠牲にした典型事例として語り継ぐのか、それとも、それは左翼勢力が流した宣伝デマであったと保守が反論する決定的な足場をつくることになるかを左右する点で重大である。


歴史の真実とは、その時代を生きた人間の真実と重なろう。そのありさまを、引き続き取材していきたい。