柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は、日本の文芸評論家、思想家。本名は、柄谷 善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。

筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむ、と一般に言われるが、本人は、否定。トイレで「kojin」という語感と響きから偶然に思いついたという[1]。

「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、「アソシエーション」という言葉を、近年では強調している。それにもとづき、2000年6月にはNAM(New Associationist Movement)を立ち上げる(2003年1月解散)。

2003年にMIT出版から『Transcritique on Kant and Marx』[9]を刊行。

2004年に岩波書店から定本柄谷行人集(全5巻)[10]を刊行。英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。

2006年に岩波新書から『世界共和国へ』[11]を出版。なお「世界共和国」という言葉はカントの『永遠平和のために』(1795)からとられている。

2007年10月アメリスタンフォード大学での講演をYouTube[12]で見ることができる。

2010年6月岩波書店から『世界史の構造』を出版した。

目次
1 経歴
1.1 1960 - 70年代
1.2 1980 - 90年代
1.3 2000 - 04年
1.4 2005年 -
2 人物
3 批判
4 略歴
5 受賞歴
6 著書
6.1 文学
6.2 哲学
6.3 共著
6.4 編著
6.5 共編著
6.6 選集
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク
10 関連項目・人物

経歴 [編集] 1960 - 70年代 [編集]1969年、夏目漱石を主題とした「意識と自然」で第12回群像新人文学賞評論部門を受賞[2]。文芸批評家としてのキャリアをスタートさせる。当時20歳で無名のすが秀実はデビュー前から柄谷のことを知っており(60年安保全学連のアクティビスト〔当時最年少〕としてであろう・柄谷は西部邁とよく全共闘を見物に行ったという)、文芸評論家としてデビューするなんて、変な人だな、と思ったという。[要出典]20代の柄谷は、吉本隆明の影響を強く受け[3]、学生のころはわざわざ吉本の家の近くにすんでいたこともある。また、評論に夏目漱石を選んだのは、『漱石とその時代』等の漱石論・保守派的な論客で知られる江藤淳に読んでもらいたかったからだという。柄谷は若い頃には江藤淳の文章を筆写して文章の練習をしていた。1975年にアメリカ・イェール大学で日本文学の講義を受け持ったのは江藤淳の推挙である。

文芸批評家としては「内向の世代」(古井由吉後藤明生)を擁護。また中上健次とは、デビュー前から友人であり、その作品の終生における同伴者となる。中上の死の時には弔辞も読んでいる[4]。また、デビュー以来の漱石論は断続的に執筆し続け、作品論としては『草枕』『門』『三四郎』『明暗』『道草』『それから』『虞美人草』を新潮文庫版のそれぞれの解説に執筆している[5]。

1973年新左翼運動衰退のメルクマールとなる連合赤軍事件を暗に主題とした「マクベス論」を発表。以降「内面への道が外界への道である」[6]として、文芸批評の枠を超え、理論的(再)吟味を中心とした仕事を数多く行うこととなる。その中心にすえられたのが、価値形態論を中心としたマルクス資本論』の読み直し・再解釈である。それは目論見的には、いままでのマルクス・レーニン主義の視点からでないマルクスを発見する、そして新たな連帯・コミュニケーションの形を見つけ出す、ということであった。

1973年「マルクスその可能性の中心」連載を『群像』で開始(1978年出版)。また1975年には、アメリカ・イェール大学で、ポール・ド・マンと出会う。1980年代に有名となった、文芸理論としてのディコンストラクション、イェール学派のド・マンを通して、1978年には哲学の脱構築ジャック・デリダにも出会った。

その理論的仕事は、メディアとしては三浦雅士編集長下の『現代思想』(1973 - )(青土社)に発表されることも多く[7]、蓮實重彦とともに1983年浅田彰『構造と力』で始まる「現代思想ブーム」「ニューアカデミズム」の一端を70年代において準備した。三浦は柄谷の『心理を越えたものの影ー小林秀雄吉本隆明』[8]で、「同時代人を発見した」と思ったという。『現代思想』では70年代、柄谷が、その当時注目の言論人と、対談を多く務め[9]、三浦は柄谷を雑誌の方向性の中心に据えたという[10]。

1980 - 90年代 [編集]80年代、立て続けに『隠喩としての建築』『言語・数・貨幣』『探究?』『探究?』と発表。いわゆる「構造主義」「ポスト構造主義」の理論的再吟味とマルクス資本論』の価値形態論の再吟味を同時に行う仕事を行った。その仕事は1995年『Architecture as Metaphor』としてまとめられ、英語版が出版された(2003年の岩波版『隠喩としての建築』はその和訳である)。日本における80年代消費社会とポストモダニズムの安易な結合を批判した『批評とポストモダン』(1984)と合わせ、その仕事は80年代、一世を風靡した。例えばこの時期、大岡昇平は、『批評とポストモダン』に小林秀雄のデビュー作「様々なる意匠」の再来を見出し[11]、東浩紀は、これを柄谷の作品で最も優れたものと、2000年代になって評した[12]。

1986年にはフランスポンピドゥー・センターで「前衛の日本」という大展覧会に付随したシンポジウムに、蓮實重彦浅田彰とともに出席した。

『探求?』連載終了後の1988年から、数回の中断をはさみながらも、雑誌『思潮』『批評空間』を浅田彰とともに主宰(2002年まで)。スラヴォイ・ジジェクを日本ではじめて本格的に紹介し特集をくむなど、浅田彰の国際的な編集能力に助けられて、88年 - 91年の冷戦構造の崩壊という歴史的事件に耐えうる、高度な理論誌を実現した。この雑誌でしか読めない貴重な論文・インタビューも多い[13]。アドバイザリー・ボードには、エドワード・サイード岩井克人鈴木忠志らが名を連ねた。また若手批評家として東浩紀を生み出した。柄谷本人は、この雑誌を中心に、これまでの、構造と実存、あるいは個別性と単独性、一般性と普遍性の区別、についての議論を、カント再吟味という形に移行させて、90年代は継続させた。

また1990年代は、ポストモダン建築・脱構築主義建築の代表的作家である、磯崎新ピーター・アイゼンマン、イグナシ・デ・ソラ・モラレスが主宰した、建築と多領域の対話の場としての国際会議Any conference[13](1991 - 2000)に参加。デザインや建築といった分野でも、脱領域的に読まれることとなる。ロサンジェルスで行われたANYの第1回目の会議の最初のパネルでは、デリダと一緒に壇上に並んだ。

1995年には、カリフォルニア大学アーバイン校で、「エクリチュールナショナリズム」[14]という論文を「人文科学の言説に関する国際会議」で発表。デリダがコメンテーターを務めた[14]。

1991年には、日本の湾岸戦争関与に反対してアピールする文学者たち[15]の中心人物として、運動を主導した。

1994年、法政大学の国際文化学部新設の取り下げに反対して、教員によるロックアウトを行う。なお、法政大学では第一教養部に所属し、英語を担当しており、文学部の所属ではなかった。

2000 - 04年 [編集]2001年、『トランスクリティーク カントとマルクス』を、その前年に自らも関わって立ち上げた生産者協同組合である、批評空間社[15][16]から出版、その内容をもとに、2000年6月、アソシエーション=「国家と資本への対抗運動」の活動、NAM(New Associationist Movement)[17][18]を立ち上げる。『NAM原理』(2000・太田出版)は、WEB上で、その内容が公開されながらも、当時1万7千部以上売れた。著名な複数のエコロジー活動家など、多数のものが参加し、最大700人の会員数を数えた[19]。2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件発生した際、NAMのサイトに「テロにも報復戦争にも反対する」という旨の声明が出た。なお、『批評空間』のWEBサイト上で、9.11同時多発テロに対する柄谷行人のコメントとして「これは予言ではない」と題する文章が掲載された[16]。

2001年12月にはWEB上でのヴァーチャルな取引を、制度設計として組み込んだことを目玉とする地域通貨Q[20]を、NAMとは独立した任意団体として、西部忠を中心に立ち上げた。当初の予定では、批評空間社も、このQに参入し、そのproductsを部分的にQ支払い可能にさせ、出版・メディア、そして最終的には流通一般そのもの、の既成の成り立ちを、徐々に変革していくことが目指されていた。第3期批評空間創刊記念シンポジウムでは、建築や芸術のジャンルから磯崎新岡崎乾二郎らがパネリストとして並び、地域通貨Qによる流通の変革への期待が述べられた。しかし、人間関係の軋轢、未知の問題点の噴出、ネット上でのコミュニケーションからおこる通信上の混乱などで、NAMは2003年1月に早々と解散。あるいは柄谷が「身も蓋もなく潰」した[17]。批評空間社も社長兼『批評空間』の編集者の内藤祐治の死(2002年春)を契機に解散した[21]。

トランスクリティーク』自体は2003年NAM解散後、MIT(マサチューセッツ工科大学出版)から英語版が出版された。ジジェクはこれを、「必読の書」と評した[18]。ジジェクは、その中で、しかしながら、柄谷のカント読解がヘーゲルによるカント批判を軽視しているのではないか?商人資本の強調が労働価値説の位置を不確かなものにしているのではないか?地域通貨という解決策にも疑念が残るのではないか?と最後に、羅列的かつ疑問符の形ではあるが指摘している[19][20]。また日本語版としては、岩波書店から柄谷行人集第三巻『トランスクリティーク』(2004)と言う形で第2版が出された。なお柄谷のカント読解は、初版出版時、岩波新カント全集監訳者の坂部恵から高い評価を受けている[21]。

また、柄谷は自身の「トランスクリティーク」という言葉を、ガヤトリ・C・スピヴァクの「プラネタリー」という言葉と親和性が高い、としている[22]。プラネタリー(惑星的)とはスピヴァクによると グローバリゼーション(地球全域化)という言葉への「重ね書き」」[23]として提案された。実際、短い期間であった近大人文研所長時代の、研究所のキャッチフレーズは「プラネタリー(惑星的)な思考と実践」「芸術とは何かを発見する術であり、認識を新たにする術であり、社会の生産のあり方をも変革する力、すでに存在する事物の再生産ではなく、まだ認識もされなかった事物を新たに見出し生み出す力、さらにその新たな事物を交換、流通させていくメディアの創設、社会関係の構築」であった。

2004年5月には近畿大学人文研での講義をもとにした『近代文学の終わり』[24]を早稲田文学[25]に発表。「若い人は「文学」をもうやらなくて結構です。かつての「近代文学」と持っている意義は同じだけど、何か、違うことを実現してください」という意のことを述べた。柄谷は、事実上この前後から、文芸批評を行っておらず、このジャンルから撤退同然である。別の場所では「これまでのスタンスのままで「文学」をいうことはできない。文学を続けたかったら、むしろそれを否定しなければならない」[26]とも述べている。

2004年11月には、京都大学で、この年の10月9日に亡くなったデリダの追悼シンポジウムに参加[27]。その中で「トランスクリティークとはディコンストラクションの否定ではなくその徹底化であると考えてもらってもいい」と述べた。

また同じく2004年に岩波書店から定本柄谷行人集(全5巻)[22]を刊行。英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。

2005年 - [編集]2005年4月から朝日新聞の書評委員[23]。

2006年3月に[近畿大学国際人文科学研究所][24]所長を、副所長で、坂口安吾研究者の関井光男(柄谷とともに新坂口安吾全集を編集)とともに辞任。2006年1月19日の公開最終講義以降、外国を含め、大学においてゼミは行っていない。現在は自宅近くで、半年に一度、長池講義[25]という無料の公開講義を行っている(2007年11月より)。

2006年4月には「21世紀の教養新書」として再出発[28]することになった岩波新書赤版から刊行数1001点目・装丁リニューアル第1弾として『世界共和国へ』を出版。なお「世界共和国」という言葉はカントの『永遠平和のために』(1795)からとられている。

近年は佐藤優(『獄中記』)[26]や宮崎学(『法と掟と』)[27]への評価が高い[29]。柄谷のアソシエーション=「国家への対抗」が必然的に国家の法・実定法と緊張関係に入る、あるいは、それとは一定程度独立した自治的空間の創出を目指すことになる、ことから、さまざまな具体的な模索をしていることの一環(宮崎学「掟」への高評価・中間団体(丸山真男)の評価)[28]だと思われる[30]。またヴィトゲンシュタインやオースティン、ハーバート・ハートの流れを汲む英米法哲学の主流派の一人、ジョン・ロールズ(『正義論』『万民の法』)をカント的理念を法に持ち込むものとして、高く評価している。

なお、ネグリ=ハートのマルチチュード(有象無象)論に関しては、「二元性(帝国(グローバルな資本主義)対マルチチュード)は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される」[29]、つまり国家を軽視している、と懐疑的である。とはいえ、90年代終わり「『トランスクリティーク』を書いた時点では、(…)ネグリらの観点と似たものを持っていた」「グローバルな資本主義の深化が、ネーション=ステートというものを希薄にすると考え」ていた、とも認めている[31]。

新自由主義リバタリアニズムに関しても、その思潮は、リベラルな外観のもとに、実質的に、国家と資本、政治と経済の結合を強め、国家的統治を強化することにしかならず、しかもそのことを隠蔽する、と批判的である[30]。

現在はフェアトレード事業を行っているオルタートレード[31]の機関誌・季刊『at[32]』(太田出版)において『「世界共和国へ」に関するノート』を連載中。国家論や互酬制・相互扶助論についての原理的な論究を行っている。

2008年1月には『新現実』Vol.5[33](太田出版)で、大塚英志と対談。その中で柄谷は「批評空間の立ち上げはもう無理」「NAMも同じで、違う形ではやるかもしれないが、俺がもう二度とやるとは思うなよ」と述べている。

地球温暖化などの環境問題に関しては、物理学者槌田敦地球温暖化二酸化炭素原因説=原子力発電奨励批判[32]に注目している[33]。同様な趣旨で、2008年4月7日朝日新聞紙上に「科学者の課題は何ですか」という分子生物学福岡伸一氏とのクロストークが掲載された。

早稲田大学2008年4月1日入学式での不当逮捕抗議声明[34](すが秀実の項を参照)に賛同署名している[34]。

2010年6月岩波書店から『世界史の構造』を出版。

人物 [編集]実父は建設会社「柄谷工務店」社長で、善男は次男で、長男が後を継いでいる。
Wikipediaを評価している[35]。
1960年の安保闘争[36]のときには全学連主流派かつ安保ブント[35]の学生活動家であった経歴もあり、一貫して日本共産党とは違った立場の「左翼」を自認している。アナーキストとも自認する。
が、同時に、国家を直接に否定することで、結局、強い国家を呼び起こす、国家やネーションは簡単に超えられない、としてアナーキズムに関して批判的でもある。「実際的には漸進主義」で「現実的には、妥協の人」[36]とも自分を規定する。「資本=ネーション=国家を揚棄するという理念がありさえすれば、実際の立場や方法にはこだわらない」[37]とも自分では述べる。
作家の冥王まさ子は元妻で、彼女の小説にモデルとして登場している[38]。柄谷は彼女の死後、再婚している。
筒井康隆中上健次とともに日本文芸家協会を1990年に退会しているが、その際「入会してから一度も会費を払ったことがない自分に退会の資格はあるのか」と最初は退会を逡巡していた。しかし中上に「名簿に名前が載っている以上、退会は可能である」と促され、最終的には二人に同調することとなった。[39]
阪神タイガースのファン。野球をプレイするのも好きで、80年代、蓮實重彦中上健次らと「カレキナダ」という草野球チームを作っていたことがある[40]。
批判 [編集] この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。このタグは2010年9月に貼り付けられました。

1980年の『日本近代文学の起源』における「『文学』という概念は歴史的にもともとあったものではなく、近代になって『源氏物語』や井原西鶴などが、『文学史』として再発見され、作りだされた」といった議論は、大きな影響力をもった。その後、「○○は近代になって、人工的に産み出された概念である」というように、様々な論者によって流用されてきた。[41]しかし1978年に『日本近代文学の起源』が『季刊藝術』に連載されていた時点で、亀井秀雄が『群像』での連載「感性の変革」において、「起源」の同定作業が不徹底であるなど厳しく批判した。が、柄谷は応答しなかった。さらにアリエス『<子供>の誕生』の剽窃だとする批判もあるが、本人は読んだことがない、と否定している[42]。

また柄谷は『新潮』1993年11月号掲載の「柄谷行人氏と日本の批評」と題された文章で、文芸評論家の福田和也から批判を浴びた。福田は(柄谷の)「文意に異議と反発を覚えながらも、私は、文の力に圧倒されてしまう事を認めざるを得ない」という言葉ではじめ、「にもかかわらず、最終的に柄谷氏の仕事は批評とはいえない」で終える。福田は徹底的に抽象化されつつもそこに柄谷の主張が刷り込まれたタームを「柄谷語」と表現する[43]。またたとえば「外部」「交通」という柄谷が重視する「柄谷語」についても、柄谷はまったく「外部」にも「交通」の場にも身をおいていないと批判する。それは柄谷がしばしば援用する小林秀雄の態度とはまったく違うものだという[44]。福田によればそれは、柄谷が過激さを装いつつ、中上健次も読者も批判したことがないことに端的に現れている[45]。さらには「論理の展開はアクロバティックであるのに」、そこから導き出されているのは「月並な守旧的主張にすぎない」とする[46]。福田和也による批判は次の言葉で締めくくられている[47]。

“ これまでと同様に柄谷氏は、文芸批評者の大勢を追って右にも左にも大胆に立場を変えるだろう。その時々の読者の前で、華麗な思考を上演して見せ、常に文芸の正しい水先案内人であり続けるだろう。だが肝心の読者たちは、いつまでも氏の子守歌を求め、耳を傾けるのだろうか。 ”
略歴 [編集]1960年 - 甲陽学院高等学校卒業。
1965年 - 東京大学経済学部卒業、同大学院英文科進学、英文科の同級生だった原真佐子(後の作家・冥王まさ子)と結婚。
1967年 - 修士課程修了
1968年 - 日本医科大学専任講師。
1970年 - 法政大学第一教養部専任講師。
1971年 - 助教授。
1975年 - 教授( - 1994年)。イェール大学東アジア学科客員教授 ( - 1977年)。ポール・ド・マンと知り合う。また、やはりイェール大学にいた、岩井克人水村美苗夫妻とも知合う。
1980年 - イェール大学比較文学科客員研究員( - 1981年)。
1983年 - コロンビア大学東アジア言語文化学科客員研究員( - 1984年)。
1990年 - カリフォルニア大学アーバイン客員教授コロンビア大学比較文学客員教授永山則夫の入会申請を日本文芸家協会が拒否したため、これを批判して、筒井康隆中上健次とともに協会を脱退。
1991年 - コーネル大学客員教授( - 1992年)。日本の「湾岸戦争関与」に反対して、中上健次川村湊田中康夫高橋源一郎いとうせいこうらと、「『「文学者」の討論集会』アッピール」を発表。
1994年 - 近畿大学文芸学部特任教授。
1995年4月21日 - 元妻の冥王がカリフォルニア州サクラメントの病院で動脈瘤破裂のため急逝。
2000年 - NAMを創設。
2002年 - 近畿大学教授・国際人文科学研究所所長( - 2006年)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授
2003年 - NAMを解散。
2006年 - 近畿大学国際人文科学研究所所長・教授を辞任。
受賞歴 [編集]1969年 - 「〈意識〉と〈自然〉 漱石試論」で第12回群像新人文学賞
1978年 - 「マルクスその可能性の中心」で第10回亀井勝一郎賞。
1996年 - 「坂口安吾中上健次」で第7回伊藤整文学賞
著書 [編集] 文学 [編集]『畏怖する人間』(トレヴィル、1972年 / 講談社講談社文芸文庫]、1990年)
夏目漱石小林秀雄吉本隆明古井由吉江藤淳芥川龍之介高橋和巳、マルコ伝、大江健三郎安部公房鮎川信夫らを論じる。
『意味という病』(河出書房新社、1975年 / 講談社講談社文芸文庫]、1989年)
島尾敏雄庄野潤三志賀直哉森鴎外らを論じる。
マルクスその可能性の中心』(講談社、1978年 / 講談社学術文庫、1990年)
表題のマルクス論の他、夏目漱石武田泰淳らを論じる。
『隠喩としての建築』(冬樹社、1979年 / 講談社講談社学術文庫]、1989年)
表題の理論的仕事の他に、 サイバネティックスや、中上健次らを論じる。
日本近代文学の起源』(講談社、1980年 / 講談社文芸文庫、1988年 / 岩波現代文庫、2008年)
国木田独歩の作品を通じて、明治20年代におこった、言文一致運動を「風景の発見」として論じる。
『批評とポストモダン』(福武書店、1985年 / 福武文庫、1989年)
中上健次梶井基次郎、『資本論』、森敦、唐十郎らや、エイズを論じる。
『終焉をめぐって』(福武書店、1990年 / 講談社講談社学術文庫]、1995年)
村上春樹中上健次大江健三郎三島由紀夫らを89年から91年の冷戦構造の崩壊に絡めて論じる。
『反文学論』(講談社講談社学術文庫]、1991年)
1977年から78年にかけて『東京新聞』夕刊に連載された、唯一の文芸時評をまとめたもの。
漱石論集成』(第三文明社、1992年 / 平凡社平凡社ライブラリー]、2001年)
断続的に書き続けた夏目漱石に関する論考を一冊にまとめる。
Origins of Modern Japanese Literature, trans. and ed. by Brett de Bary, Duke University Press, 1993 (英語)
坂口安吾中上健次』(太田出版、1996年 / 講談社文芸文庫、2006年)
『差異としての場所』(講談社講談社学術文庫]、1996年)
『日本精神分析』(文藝春秋、2002年 / 講談社学術文庫、2007年)
表題の論考のほか、芥川龍之介谷崎潤一郎菊池寛らを論じる。
近代文学の終わり・柄谷行人の現在』(インスクリプト 2005年)
近代文学の終わり」に関する講演のほか、二葉亭四迷の翻訳の問題について論じる。
哲学 [編集]『ダイアローグ』?〜?(冬樹社、1979年 / 第三文明社、1987年 - 1991年)
『内省と遡行』(講談社、1985年 / 講談社学術文庫、1988年)
『探究I』(講談社、1986年 / 講談社学術文庫、1992年)
『探究II』(講談社、1989年 / 講談社学術文庫、1992年)
『言葉と悲劇』(講談社講談社学術文庫]、1993年) 講演集。
『ヒューモアとしての唯物論』(筑摩書房、1993年 / 講談社講談社学術文庫]、1999年)
『〈戦前〉の思考』(文藝春秋、1994年 / 講談社講談社学術文庫]、2001年)
憲法湾岸戦争、国家、民族、議会制民主主義などを論じた講演集。
Architecture as Metaphor, The MIT Press, 1995 (英語)
日本語版の『隠喩としての建築』『内省と遡行』『探究?、?』を一冊にまとめる。定本柄谷行人集の『隠喩としての建築』はこれの翻訳。
『倫理21』(平凡社、2000年 / 平凡社ライブラリー、2003年)
天皇制、東京裁判丸山眞男昭和天皇の戦争責任、教育、宗教、酒鬼薔薇事件などを論じた、初の書き下ろし。
トランスクリティーク――カントとマルクス』(批評空間、2001年)
柄谷行人初期論文集』(批評空間、2002年インスクリプトから2005年に再版)
文芸批評家としてデビュー以前に、発表された論考を収める。
Transcritique : On Kant and Marx, The MIT Press, 2003 (英語)
『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』(岩波書店岩波新書]、2006年)
柄谷行人 政治を語る』聞き手 小嵐九八郎(図書新聞、2009年)
『世界史の構造』(岩波書店、2010年)
共著 [編集](中上健次)『小林秀雄をこえて』(河出書房新社、1979年)
笠井潔)『<現在>との対話(1)ポスト・モダニズム批判――拠点から虚点へ』(作品社、1985年)
蓮實重彦)『闘争のエチカ』(河出書房新社、1988年)
岩井克人)『終わりなき世界――90年代の論理』(太田出版、1990年)
小池清治・小森陽一芳賀徹亀井俊介)『漱石をよむ』(岩波書店、1994年)
(絓秀実・福田和也富岡幸一郎大杉重男・清水良典)『皆殺し文芸批評――かくも厳かな文壇バトル・ロイヤル』(四谷ラウンド、1998年)
浅田彰市田良彦・小倉利丸・崎山正毅)『マルクスの現在』(とっても便利出版部、1999年)
浅田彰岡崎乾二郎奥泉光島田雅彦・絓秀実・渡部直己)『必読書150』(太田出版、2002年)
編著 [編集]『シンポジウム』(思潮社、1989年 / 太田出版、1994年)
『近代日本の批評』(福武書店、1990年 / 講談社講談社文芸文庫]、1997年)
『可能なるコミュニズム』(太田出版、2000年)
共編著 [編集](蟻二郎・森常治)『現代批評の構造――通時批評から共時批評へ』(思潮社、1971年)
渡部直己)『中上健次と熊野』(太田出版、2000年)
選集 [編集]『定本柄谷行人集』(岩波書店、2004年)
日本近代文学の起源
「隠喩としての建築」
トランスクリティーク――カントとマルクス
「ネーションと美学」
「歴史と反復」
脚注 [編集][ヘルプ]
^ 「文学と運動−2000年と1960年の間で」(インタビュー)2001年『文学界』1月号
^ 選考者は江藤淳大江健三郎野間宏安岡章太郎
^ 吉本隆明は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰柄谷行人蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と激烈に応答した(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p200p278p338)柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p226参照)。ただし2005年になって、吉本は「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として、柄谷行人を唯一、例として名前を出し、「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている(『時代病』( ウェイツ, 2005)あとがきp204参照。なお親鸞の「還相」を、吉本隆明は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている(『超・戦争論』(2002アスキーコミュニケーションズ)下巻pp230参照)
^ 「朋輩中上健次」『文学界』1992年10月
^ これら漱石に関する論考は、2001年平凡社ライブラリー版『漱石論集成』に ほぼ全て収められている)
^ 「内面への道と外界への道」:『畏怖する人間』収録
^ 『内省と遡行』(1980連載)『形式化の諸問題』(1981)等。三浦雅士が『現代思想』編集から離れたときには『「現代思想」と私』(1981.12)という短いエッセイを捧げている
^ 1973『畏怖する人間』収録
^ 多くは『ダイアローグ』の?・?に収録されている
^ 「意識と自然」からの思考― 三浦雅士との対談『ダイアローグ?』
^ 「政治化した私」をめぐって― 大岡昇平との対談『ダイアローグ?』
^ 「誤状況論」『文学環境論集 東浩紀コレクションL』2007
^ 『批評空間』については、公式サイト内のページで全目次を閲覧できる。“編集雑誌”. 柄谷行人. 2011年6月23日閲覧。
^ 『ヒューモアとしての唯物論』収録
^ 署名したものにはいとうせいこう川村湊島田雅彦高橋源一郎田中康夫津島佑子中上健次吉田司らがいる。
^ 「どうか、皆さん、国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめてもらいたい。そうすれば、三、四年後に確実に後悔するだろうから。その逆に、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを勧めたい」(出典:批評空間WEBサイト)。なおこれには、大塚英志による批判がある。大塚は『小説トリッパー』2001年冬季号に掲載された「それはただの予言ではないか──「戦時下」の「文学」について──」(のちに角川文庫・『サブカルチャー反戦論』に再録)という文章において、柄谷の「今は右往左往せず、戦後に備えた方がいい」という主旨の呼びかけに対し、「戦時下の今こそ、言葉を発するのが文学者としての責務ではないか」と述べている(角川書店の『同時多発テロ以後のガイドブック』でも大塚は同様の発言をしている)。
^ 「「努力目標」としての近代を語る」『新現実05』2008での大塚英志の表現。p39参照。なお大塚は、柄谷のNAM解散断行を肯定している。一方、批評空間社の共同出資者であり、『批評空間』の執筆者であった、鎌田哲哉らが、NAM・柄谷行人に批判的・総括的な視点・運動の再生という視点(鎌田は2003年4月発行の『重力02』において、「運動が崩壊したときに本当は運動が始まる。「重力」出版会議が始動して、年に何冊か本が出て、Qで流通するようになったらかっこいい」と述べている(P41)。)から『重力03 Q-NAM問題』を出版しようと2003年秋から試みるが、2009年現在、実現されていない。鎌田のNAM・柄谷批判としては、WEB上で『京都オフライン議事録・西部柄谷論争の公開[1]』(2003.11)を、結論が未完と言う形ではあるが、読むことができる。そのなかで議事録が一部公開されている。なお、解散直前のNAMに関しての柄谷の詳細な言及は、2002年11月韓国嶺南(ヨンナン)大学での講演記録[2]雑誌『緑色評論』のwebで読むことができる。
^ 『『The Parallax View』(MIT)2006 『思想』2004年8月号に『視差的視点』として翻訳あり
^ この点に関しては、柄谷自身による朝日新聞におけるジジェクの『パララックス・ビュー』の書評で簡潔な反論を試みており、自身のサイトにおいて再録している。http://www.kojinkaratani.com/jp/bookrv/post-49.html 【初出】:2010.3.7 朝日新聞書評欄
^ また、トルコ人批評家アフメット・オズによる柄谷行人インタビュー(『at プラス02』(2009、p101)に詳しくこのジジェクの指摘に関する実情が掲載されている。
^ 柄谷・板部の対談「カントとマルクス―『トランスクリティーク』以後へ」『群像』2001.12
^ 2004年10月27日朝日新聞『プラネタリーな抵抗』
^ 『ある学問の死−惑星思考の比較文学へ』みすず書房2004
^ 『近代文学の終わり・柄谷行人の現在』2005インスクリプト収録
^ 「早稲田文学」(第9次)は柄谷論文の掲載号(2004.5)から2005年5月の第9次休刊まで、「近代文学の終わり」という特集のもとに、刊行を続けた。
^ 「Re-membering Jacques Derrida」2005年2月『新潮』
^ 他に鵜飼哲浅田彰がシンポジウム出席者/ 京都大学現代思想自主ゼミ主催:2005年2月『新潮』に「Re-membering Jacques Derrida」として採録
^ そのキャッチコピーは「変わりますが変わりません」だった
^ 2006・2007年度書評委員「お勧めの三点」[3][4]:朝日新聞
^ 『丸山真男とアソシエーショニズム』「思想」2006.8
^ 座談会「『世界共和国へ』をめぐって」『at』4号[5]:2006
^ 『エコロジー神話の功罪』ほたる出版、「エントロピー論から見た農業」『at』6号[6]「温暖化の脅威を語る気象学者のこじつけ論理」『at』11号2008[7]
^ 『at』6号2006「『世界共和国へ』に関するノート」(2)p137脚注の部分に柄谷による槌田敦の提言の詳しい要約がある
^ 2008年8月、現行の大学改革に関して、書評に絡み、「アメリカでは、大学教育をより効率的にするために、ムダと見える学問、特に、人文学を切り捨ててきた。日本でもその真似(まね)をしている。(…) 本書の原題は「暗黒時代が近づいている」という意味であるが、暗黒時代とは、ローマ帝国が滅んだあとのゲルマン社会で、ローマの文化がすぐに忘却されてしまったことを指している。そのような事態が現在おこりつつある、という著者の予感に、私は同意する。それをひきおこしているのは、いうまでもなく、グローバルな資本主義である。」[8]と述べている。
^ 全学連主流派を牽引していたのが安保ブント・世界初の共産党からの独立左翼と言われる。
^ 山口二郎中島岳志との対談「現状に切り込むための「足場」を再構築せよ」p30参照『論座』2008.10
^ 山口二郎中島岳志との対談「現状に切り込むための「足場」を再構築せよ」p29参照『論座』2008.10
^  『天馬空を行く』(1985)は1976年夏アメリカ・ニューヘイブン(エール大学所在地)出発のヨーロッパ旅行を小説化したものである。ポール・ド・マンも実名で登場している。文庫版は柄谷が解説を書いている。
^ 筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』(新潮社1994)「中上健次が死んだ」
^ ちなみに過去在籍メンバーは、渡部直己、絓秀実、松本健一立松和平高橋源一郎平石貴樹尾辻克彦赤瀬川隼ねじめ正一島田雅彦、など)。東京堂書店セミナーで顔を合わせた時に結成。
^ 李孝徳『表象空間の近代』、ハルオ・シラネ鈴木登美編『創造された古典』など。石原千秋はこれを「つくられた系」の議論と呼んでいる。
^ 『ダイアローグ』参照
^ (福田 1993) pp.201-202
^ (福田 1993) pp.217-218
^ (福田 1993) p.219
^ (福田 1993) p.218
^ もっとも柄谷と福田の仲は険悪というわけではない。たとえば柄谷は福田の著書である『奇妙な廃墟』(ちくま学芸文庫)に解説を寄稿している他、今日に至るまで雑誌上や『批評空間』で対談するなど、むしろ良好といえるほどである。
参考文献 [編集]福田和也柄谷行人氏と日本の批評」新潮1993年11月号 pp.198-219
外部リンク [編集]公式サイト
karataniweb ~KojinKarataniOfficalWebsite~
関連サイト
近畿大学国際人文科学研究所
定本柄谷行人
研究サイト
柄谷行人書誌情報 ■KARATANI-B■
哲学の劇場
定本柄谷行人集総合索引
関連項目・人物 [編集]ポストモダン
フランス現代思想
現代文学
現代思想
文芸理論
中上健次
蓮實重彦 
浅田彰
NAM
イソノミア
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カテゴリ: 日本の哲学者日本の文芸評論家日本の無政府主義者20世紀の哲学者21世紀の哲学者ポストモダン文学脱構築近畿大学の教員法政大学の教員日本医科大学の教員兵庫県出身の人物1941年生存命人物

西部 邁(にしべ すすむ、1939年3月15日 - )は日本の評論家、思想家、雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

目次
1 経歴
2 思想
3 受賞
4 雑誌の刊行
5 テレビ出演
6 映画出演
7 エピソード
8 作品
8.1 単著
8.2 共著
8.2.1 一部執筆/インタビュー書籍
8.3 翻訳
8.4 音声・動画作品
9 脚注
10 関連項目
10.1 門下生
10.2 雑誌
10.3 その他
11 外部リンク

経歴 [編集]1939年3月、北海道山越郡の漁師町・長万部町に生まれる[1]。父は浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校(この頃、吃りであったと明かしている[2])、札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスレーニンスターリン毛沢東も知らぬノンポリであった。1957年、東京大学の受験に落ち、その後一年間浪人生活を送る。

1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入る。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟する。在学中の1959年から教養学部自治会委員長を務める。同委員長の選挙の際、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させる[3]。また全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加する[4]。

1961年3月、左翼過激派と訣別する。1964年3月、東京大学経済学部卒業。このころブントの活動家であった青木昌彦の勧めで東京大学大学院に進み、経済学を専攻する。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。1972年、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件の報道を目にして、そのときまで多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をせざるをえなくなる。[5]横浜国立大学経済学部助教授、次いで東京大学教養学部助教授に就任する。経済学をはじめとする社会科学の細分化を一貫して批判する。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では社会学などの方法論を導入して旧来の経済学を批判する。経済行為の象徴的意味の解釈を志向する社会経済学の構築をめざし注目される。その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍。『蜃気楼の中へ』という英米滞在記を発表した。帰国後80年代から大衆社会批判を主軸とした保守論客として活躍をはじめ、各方面で発言を続ける。高度大衆社会アメリカニズム批判と西欧流保守思想の擁護とを基軸にした評論活動を活発に行う。みずからも受賞したサントリー学芸賞の選考委員を長く委嘱される。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任する。

1988年、中沢新一東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会は通ったが教授会の採決のとき一部の教官たちの妨害により否決される。同年3月、西部はこれに抗議して東京大学を辞任する(東大駒場騒動)。その後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授秀明大学教授・学頭を歴任。新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった。西尾幹二が台湾や金美齢を批判したことを巡って西尾との間で論争に発展した。台湾独立派の金美齢は「つくる会」に協力的だった。アメリカニズム、グローバリズム近代主義への批判は従来から西部の思想の中心を占めていたが、アメリカ同時多発テロ事件以降の日本の親米知識人たちのアメリカ追従姿勢に対する批判は西尾や田久保忠衛らとの対立を招く。

2002年、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。以後「産経新聞」、「正論」、「諸君!」などを中心とする日本の親米保守の知識人たちと一線を画し彼らを批判。アメリカのイラク侵攻に大義はないと主張し彼らと対立した。また女系天皇を容認する皇室典範改正を是としたことから「左に回帰した」との批判を受ける。だが、現在も日本の核武装、徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化などを主張している。

思想 [編集]西部は『発言者』塾[6]の心得十箇条として、以下のように自らの思想の方向を要約している。

人間を「言葉の動物」と理解する。
言葉の産物としての個人および集団における意味的現象を総合的に解釈する。
意味的解釈という矛盾をはらんだ作業において平衡をとる。
人工言語に傾くものとしての概念・理論と自然言語に傾くものとしての思想・実践とを両立させる。
人生経験、認識活動および政治行動の融合をはかる。
言葉の基礎としての歴史の英知を保守する。
戦後日本を歴史破壊的時代として懐疑する。
異世代および異国人にたいする接近と離反において中庸を守る。
大衆教育(大学)と大衆伝達(マスコミ)が、言葉・解釈・経験・実践・歴史の一切を平板化させていることにたいして、批判を差し向ける。
哲学(真)、宗教(善)、および芸術(美)への関心を絶やさないことによって、虚無主義にたいする防波堤を築く。
受賞 [編集]1983年 『経済倫理学序説』で吉野作造賞を受賞
1984年 『生まじめな戯れ』でサントリー学芸賞を受賞
1992年 評論活動により第八回・正論大賞を受賞
2010年 『サンチョ・キホーテの旅』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞
雑誌の刊行 [編集]1994年4月、真正保守思想を標榜する月刊オピニオン誌「発言者」(西部邁事務所、秀明出版会)を創刊し主幹を務めていたが2005年3月、財政上の理由により廃刊。
1997年の創刊から1998年の休刊まで英文雑誌「JAPAN CURRENTS」(日本国民文化研究所)の総合監修を務める。
2003年7月、「北の発言」を創刊するがその後財政上の理由により廃刊。
2005年より「発言者」の後継誌「表現者」(ジョルダン)が刊行されており西部はその顧問を務めている。
テレビ出演 [編集]東大辞職後はテレビ出演が多くなる。テレビ朝日系列の討論番組『朝まで生テレビ!』の準レギュラーでもあった。
2004年12月から東京MXテレビの『談志・陳平の言いたい放だい』に出演。2005年4月、立川談志野末陳平吉村作治毒蝮三太夫と「談シング5(ファイブ)」を結成。
2008年10月、「談志・陳平の言いたい放だい」の後番組として、西部が司会を務める『続・言いたい放だい』の放送が始まる(2009年1月より番組名を「西部邁ゼミナール〜戦後タブーをけっとばせ〜」と改題)。富岡幸一郎東谷暁がゲストとして何度も出演している。
2008年以降、フジテレビの番組『報道2001』に頻繁に出演し持論を展開した。
2009年4月4日、『西部邁佐高信の学問のすゝめ』(朝日ニュースター)の放送が始まる。近現代史上の著名人についての持論を展開。2010年4月2日に終了。その後好評につきアンコール放送される。
2010年4月3日、「本」をテーマにした対談番組『西部邁佐高信の学問のすゝめ?』(朝日ニュースター)の放送が始まる。
2011年、「映画」をテーマにした対談番組『西部邁佐高信の学問のすゝめ?』(朝日ニュースター)の放送が始まる。
映画出演 [編集]公開年 タイトル 監督
2005年 LEFT ALONE 井土紀州
2009年 ベオグラード1999 金子遊
エピソード [編集]法哲学井上達夫駒場時代に助手であったころ西部から大きな影響を受けた。千葉大学助教授となった井上が論壇に押し上げられたのは、西部がサントリー学芸賞選考で井上を高く評価したことによる[要出典]。
西部は自分の好き嫌いについて次のように述べている[7]。
好き 嫌い
人物 自分 自分
言葉 保守 革新
食べ物 うどん 幕の内弁当
学問 ある種の哲学 あらゆる種類の経済学
芸術 ある種の絵画 最近の文学
スポーツ なし なし
動物 猫 人間と言いたいところだが、なし
宗教 すべての旧宗教と言いたいところだが、なし すべての新興宗教と言いたいところだが、なし
国(人種) まずイタリア、次にイギリスと言いたいが、やはり日本 まずアメリカ、次に韓国と言いたいが、やはり日本

1992年、東京都東村山市憲法記念日の行事として市主催の講演会を開催することになり西部に講演を依頼した。西部が快諾し講演会の開催が決まったところ、一部市民団体などが「改憲を主張する西部氏を市主催行事の講師に招くということは東村山市改憲を支持しているに等しい」等と抗議した。これに対し市は「西部氏は東村山市民なので依頼したのであり市が改憲を主張しようということではない」と説明したが市民団体などはごね続けた。そこで市は護憲派も講師に招こうと考えたが市内には護憲派の著名人がいなかったため南隣の東京都国分寺市に所在する東京経済大学の教授(当時)で護憲派色川大吉に依頼した。色川は「西部さんとは旧知で何度も議論しているので是非参加したい」と快諾。市民団体もごねるのを止め講演会は無事開催されるに至った。
2001年8月、船橋市立西図書館のある司書が同館所蔵の西部の多数の著書などを廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。西部はこの件を引き合いに出して次のように言っている。
つい先だって、船橋の市立図書館で、私の書物が一冊を除いてすべてひそかに廃棄されるという扱いを受けたが、次の焚書(ふんしょ)に当たっては、本書(『知性の構造』ハルキ文庫版)がその一冊の例外になるという名誉にあずかれればと切望する。坑儒されてみたいくらいに思っている私がなぜこんなことをいうのか。それは、本書がどこかに残っていれば、その作成に携わってくれた皆様に――単行本を物にしてくれた小山晃一氏を含めて――ささやかな返礼ができると思うからである。

西部邁『知性の構造』ハルキ文庫、2002年、270頁。

2002年、西部は東京西麻布の裏通りにあるイタリアン・レストラン「ゼフィーロ」の地主となった[8]。長男の一明が同レストランのオーナー兼支配人(建て物所有者兼店舗経営者)を務めた。同レストランは2007年4月に閉店。
西部が高く評価している日本人は山本常朝、福澤諭吉夏目漱石坂口安吾、田中美知太郎、福田恆存三島由紀夫などである[9]。
親米派論壇人たちがみずからの輪の中で閉塞してゆく状況にあって姜尚中と対談したり「週刊金曜日」の取材に応じたりと立場の違うものとも積極的に対話しようとする姿勢は際立っている。
西部は自分が念じることおよび自分の生死の意味について次のように述べている。
私の念じるのは、評論家として、次のように思いつつそして死ぬことだけである。

つまり、この人の世にあるのは言葉だけであり、自分という極微の存在は、過去のあまりにも巨大な言葉の集積のうちほんの局所を受け継ぎ、そしてそれにごく僅少の加工をほどこして、死とともに、それを何処の誰とも知れぬ人に手渡す(素振をする)、私の生死の意味はそのことに尽きると思っている。

— 『寓喩としての人生』徳間書店、238頁。

「WiLL」2011年4月号で大相撲の八百長を擁護した[10]。
作品 [編集] 単著 [編集]『ソシオ・エコノミックス 集団の経済行動』 中央公論社、1975年。
『ソシオ・エコノミックス』 イプシロン出版企画、2006年4月。ISBN 4-903145-03-4。
『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』 日本評論社、1979年6月。
『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』 中央公論社〈中公文庫〉、1985年8月。ISBN 4-12-201246-5。
『経済倫理学序説』 中央公論社、1983年3月。
『経済倫理学序説』 中央公論社〈中公文庫〉、1991年11月。ISBN 4-12-201854-4。
ケインズ岩波書店〈20世紀思想家文庫 7〉、1983年4月。
『大衆への反逆』 文藝春秋、1983年7月。
『大衆への反逆』 PHP研究所PHP文庫〉、1991年4月。ISBN 4-569-56349-X。
『生まじめな戯れ 価値相対主義との闘い』 筑摩書房1984年7月。
『生まじめな戯れ 価値相対主義との闘い』 筑摩書房ちくま文庫〉、1992年1月。ISBN 4-480-02594-4。
『論士歴問 大衆社会をこえていく綱渡り』 プレジデント社、1984年10月。ISBN 4-8334-1238-1。
『幻像の保守へ』 文藝春秋、1985年7月。
大衆社会のゆくえ』 日本放送協会編、日本放送出版協会NHK市民大学〉、1986年7月。
『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー文藝春秋、1986年10月。ISBN 4-16-340990-4。
『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー洋泉社〈MC新書 17〉、2007年6月。ISBN 978-4-86248-149-8。
『大衆の病理 袋小路にたちすくむ戦後日本』 日本放送出版協会NHKブックス 518〉、1987年1月。ISBN 4-14-001518-7。
『批評する精神』 PHP研究所、1987年6月。ISBN 4-569-22038-X。
『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』 日本経済新聞社、1987年9月。ISBN 4-532-09450-X。
『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』 PHP研究所PHP文庫〉、1991年12月。ISBN 4-569-56435-6。
『大錯覚時代』 新潮社、1987年10月。ISBN 4-10-367501-2。
『剥がされた仮面 東大駒場騒動記』 文藝春秋、1988年7月。ISBN 4-16-342480-6。
『大衆民主主義を疑う』 自由民主党調査局政治資料研究会議〈情報資料 368号〉、1988年11月。
『新・学問論』 講談社講談社現代新書〉、1989年2月。ISBN 4-06-148936-4。
『学者この喜劇的なるもの』 草思社、1989年6月。ISBN 4-7942-0345-4。
『サンチョ・キホーテの眼』 文藝春秋、1989年6月。ISBN 4-16-343340-6。
『批評する精神』続、PHP研究所、1989年8月。ISBN 4-569-52542-3。
ニヒリズムを超えて』 日本文芸社、1989年10月。ISBN 4-537-04986-3。
ニヒリズムを超えて』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、1997年11月。ISBN 4-89456-362-2。
『マスコミ亡国論 日本はなぜ“卑しい国”になったのか』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1990年4月。ISBN 4-334-00494-6。
『白昼への意志 現代民主政治論』 中央公論社、1991年1月。ISBN 4-12-001988-8。
『マスメディアを撃て』 PHP研究所、1991年2月。ISBN 4-569-52976-3。
戦争論 絶対平和主義批判』 日本文芸社、1991年6月。ISBN 4-537-05003-9。
戦争論 暴力と道徳のあいだ』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2002年2月。ISBN 4-89456-957-4。
『思想史の相貌 近代日本の思想家たち』 世界文化社、1991年6月。ISBN 4-418-91511-7。
『思想史の相貌』 徳間書店〈徳間文庫〉、1997年12月。ISBN 4-19-890809-5。
『私の憲法論 日本国憲法改正試案』 徳間書店、1991年6月。ISBN 4-19-554590-0。
『私の憲法論 真正保守による改正試案』 徳間書店〈徳間文庫〉、1999年5月。ISBN 4-19-891110-X。
『批評する精神』3、PHP研究所、1992年1月。ISBN 4-569-53524-0。
『人間論』 日本文芸社、1992年4月。ISBN 4-537-05012-8。
『人間論』 PHP研究所PHP文庫〉、1996年3月。ISBN 4-569-56837-8。
『批評する精神』4、PHP研究所、1993年2月。ISBN 4-569-53894-0。
『「成熟」とは何か 新政経学のすすめ』 講談社、1993年4月。ISBN 4-06-206429-4。
『リベラルマインド 歴史の知恵に学び、時代の危機に耐える思想』 学習研究社、1993年7月。ISBN 4-05-105638-4。
『日本人の嘘 政治改革からマスコミ世論まで』 光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0669-8。
『歴史感覚 何が保守政治の神髄か』 PHP研究所、1994年6月。ISBN 4-569-54318-9。
『歴史の復権 「文明」と「成熟」の構図』 東洋経済新報社〈日本を考える〉、1994年7月。ISBN 4-492-08554-8。
『死生論』 日本文芸社、1994年11月。ISBN 4-537-05035-7。
『死生論』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、1997年5月。ISBN 4-89456-311-8。
『日本とは何か日本人とは何か 正統知識人の驚くべき先見力』第1巻、広済堂出版〈みんなに聞いて欲しい心の物語〉、1995年7月。ISBN 4-331-50490-5。
『世人に言上したきことあり』 新潮社、1996年1月。ISBN 4-10-367502-0。
『現在への証言 平成の世と切り結ぶ』 広済堂出版、1996年2月。ISBN 4-331-50519-7。
『破壊主義者の群れ その蛮行から日本をいかに守るか』 PHP研究所、1996年3月。ISBN 4-569-54969-1。
『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』 文藝春秋、1996年4月。ISBN 4-16-350900-3。
『知性の構造』 角川春樹事務所、1996年7月。ISBN 4-89456-025-9。
『知性の構造』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2002年11月。ISBN 4-7584-3014-4。
『知識人の生態』 PHP研究所PHP新書〉、1996年11月。ISBN 4-569-55365-6。
『「国柄」の思想』 徳間書店、1997年1月。ISBN 4-19-860634-X。
開発経済学研究派遣制度研究報告書. 平成7年度-平成8年度』 大蔵省財政金融研究所研究部、1997年。
『恐慌前夜の独り言』 新潮社、1998年2月。ISBN 4-10-367503-9。
『なぜ「日本売り」は起きたのか 愚かなるかな、改革論者よ』 PHP研究所、1998年3月。ISBN 4-569-55977-8。
『国家と歴史 状況の中で』 秀明出版会〈発言者双書 1〉、1998年4月。ISBN 4-915855-11-2。
『寓喩としての人生』 徳間書店、1998年6月。ISBN 4-19-860864-4。
西部邁の論争の手引き』 日刊工業新聞社〈B&Tブックス〉、1998年9月。ISBN 4-526-04242-0。
『虚無の構造』 飛鳥新社、1999年4月。ISBN 4-87031-366-9。
西部邁の論争ふたたび 対米属国からぬけでる方法』 日刊工業新聞社〈B&Tブックス〉、1999年11月。ISBN 4-526-04470-9。
福澤諭吉 その武士道と愛国心文藝春秋、1999年12月。ISBN 4-16-355800-4。
国民の道徳新しい歴史教科書をつくる会編、産経新聞ニュースサービス、2000年10月。ISBN 978-4-594-02937-1。
ナショナリズムの仁・義』 PHP研究所、2000年12月。ISBN 4-569-61428-0。
エコノミストの犯罪 「失われた10年」を招いたのは誰か』 PHP研究所、2002年4月。ISBN 4-569-62063-9。
『保守思想のための39章』 筑摩書房ちくま新書〉、2002年9月。ISBN 4-480-05966-0。
『人生の作法』 飛鳥新社、2002年10月。ISBN 4-87031-521-1。
『獅子たりえぬ超大国 なぜアメリカは強迫的に世界覇権を求めるのか』 日本実業出版社、2003年4月。ISBN 4-534-03569-1。
アメリカの大罪』 小学館小学館文庫〉、2003年7月。ISBN 4-09-405711-0。 - 西部邁の論争ふたたび』(日刊工業新聞社、1999)から再編集。
『わが憲法改正案 「大切な心」を忘れた日本人』 ビジネス社、2004年4月。ISBN 4-8284-1115-1。
『学問』 講談社、2004年4月。ISBN 4-06-212369-X。
『人生読本』 ダイヤモンド社、2004年7月。ISBN 4-478-70311-6。
『友情 ある半チョッパリとの四十五年』 新潮社、2005年4月。ISBN 4-10-367504-7。
『無念の戦後史』 講談社、2005年8月。ISBN 4-06-213057-2。
核武装論 当たり前の話をしようではないか』 講談社講談社現代新書〉、2007年3月。ISBN 978-4-06-149884-6。
『教育 不可能なれども』 ダイヤモンド社、2007年7月。ISBN 978-4-478-00200-1。
『「日本国憲法」を読む』上、イプシロン出版企画、2007年8月。ISBN 978-4-903145-20-4。
『妻と僕 寓話と化す我らの死』 飛鳥新社、2008年7月。ISBN 978-4-87031-851-9。
『「日本国憲法」を読む』下、イプシロン出版企画、2008年9月。ISBN 978-4-903145-21-1。
『サンチョ・キホーテの旅』 新潮社、2009年3月。ISBN 978-4-10-367505-1。
『陥没する世界のなかでの「しあわせ」論』 ジョルダンジョルダンブックス〉、2009年1月。ISBN 978-4-915933-07-3。
『だからキミの悩みは黄金に輝く 西部邁の人生相談』 ジョルダンジョルダンブックス〉、2009年4月。ISBN 978-4-915933-20-2。
『14歳からの戦争論ジョルダンジョルダンブックス〉、2009年10月。ISBN 978-4-915933-25-7。
『昔、言葉は思想であった 語源からみた現代』 時事通信出版局、2009年11月。ISBN 978-4-7887-0974-4。
焚書坑儒のすすめ エコノミストの恣意を思惟して』 ミネルヴァ書房、2009年11月。ISBN 978-4-623-05621-7。
小沢一郎は背広を着たゴロツキである。 私の政治家見験録』 飛鳥新社、2010年7月。ISBN 978-4-86410-029-8。
共著 [編集]富岡多恵子 『大衆論 対談』 草思社1984年7月。
笠井潔川村湊小阪修平竹田青嗣長崎浩西部邁ビジネス文明批判 尾根道をたどりながら』 作品社〈<現在>との対話 6〉、1986年4月。ISBN 4-87893-606-1。
加藤尚武 『烈々豪々(Let's go!)人生学』 理想社、1988年11月。
石川好 『覚悟! 朝まで討論=<日本>』 弓立社、1989年5月。ISBN 4-89667-122-8。
栗本慎一郎 『立ち腐れる日本 その病毒は、どこから来たのか』 光文社〈カッパ・サイエンス〉、1991年9月。ISBN 4-334-06062-5。
新野哲也 『正気の保ち方 「繁栄の空虚」からいかに脱するか』 光文社〈カッパ・ビジネス〉、1992年5月。ISBN 4-334-01266-3。
三田誠広 『息子の教育 闘論』 プレジデント社、1994年11月。ISBN 4-8334-1545-3。
秋山祐徳 『ポップコン宣言 偽りの戦後史を書き替える』 光文社〈カッパ・サイエンス〉、1995年5月。ISBN 4-334-06096-X。
『日本の自画像』vol.3、うら梅の郷会編、葦書房、1995年6月。ISBN 4-7512-0600-1。
小林よしのり福田和也佐伯啓思 『国家と戦争 徹底討議』 飛鳥新社、1999年6月。ISBN 4-87031-371-5。
榊原英資・飯田経夫 『大いなる説得 われらの子と孫への提言』 西部邁責任編集、日刊工業新聞社〈B&Tブックス〉、2000年11月。ISBN 4-526-04674-4。
福田和也佐伯啓思・絓秀実 『テロルと国家 徹底討議』 飛鳥新社、2002年4月。ISBN 4-87031-499-1。
中曾根康弘松井孝典 『論争教育とは何か』 文藝春秋〈文春新書〉、2002年5月。ISBN 4-16-660249-7。
小林よしのり 『反米という作法』 小学館、2002年9月。ISBN 4-09-389053-6。
田原総一朗姜尚中愛国心講談社、2003年6月。ISBN 4-06-211911-0。
田原総一朗姜尚中愛国心講談社講談社+α文庫〉、2005年7月。ISBN 4-06-256952-3。
小林よしのり 『アホ腰抜けビョーキの親米保守飛鳥新社、2003年7月。ISBN 4-87031-564-5。
小林よしのり 『本日の雑談』1、飛鳥新社、2004年5月。ISBN 4-87031-608-0。
小林よしのり 『本日の雑談』2、飛鳥新社、2004年7月。ISBN 4-87031-623-4。
中曽根康弘松本健一憲法改正大闘論 「国民憲法」はこうして創る』 ビジネス社、2004年9月。ISBN 4-8284-1144-5。
小林よしのり 『本日の雑談』3、飛鳥新社、2004年10月。ISBN 4-87031-640-4。
小林よしのり 『本日の雑談』4、飛鳥新社、2004年12月。ISBN 4-87031-648-X。
金子勝姜尚中金美齢小林よしのり高野孟西部邁・樋口恵子・森本敏 『「愛国心」「国益」とはなにか。 朝まで生テレビ!』 田原総一朗責任編集、アスコム、2004年2月。ISBN 4-7762-0133-X。
小林よしのり 『本日の雑談』5、飛鳥新社、2005年3月。ISBN 4-87031-659-5。
小林よしのり 『本日の雑談』6、飛鳥新社、2005年6月。ISBN 4-87031-675-7。
ケインズイプシロン出版企画 (発売)、2005年7月。ISBN 4-903145-02-6。
小林よしのり 『本日の雑談』7、飛鳥新社、2005年8月。ISBN 4-87031-689-7。
中曾根康弘松井孝典松本健一 『「昭和80年」戦後の読み方』 文藝春秋〈文春新書〉、2005年8月。ISBN 4-16-660458-9。
小林よしのり 『本日の雑談』8、飛鳥新社、2005年11月。ISBN 4-87031-697-8。
弘兼憲史 『本日の雑談』9(第2期 1)、飛鳥新社、2006年6月。ISBN 4-87031-707-9。
鈴木宗男宮崎学 『日本と戦う』 講談社、2006年8月。ISBN 4-06-213506-X。
弘兼憲史 『本日の雑談』10(第2期 2)、飛鳥新社、2006年10月。ISBN 4-87031-723-0。
辻惠 『道義あふれる国へ 「美しい国へ」の欺瞞を撃つ』 イプシロン出版企画、2007年2月。ISBN 978-4-903145-23-5。
中島岳志 『保守問答』 講談社、2008年1月。ISBN 978-4-06-214505-3。
中島岳志 『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』 講談社講談社現代新書〉、2008年7月。ISBN 978-4-06-287954-5。
佐高信 『思想放談』 朝日新聞出版、2009年10月。ISBN 978-4-02-250639-9。
宮崎正弘日米安保50年』 海竜社、2010年1月。ISBN 978-4-7593-1109-9。
波頭亮 『知識人の裏切り どこまで続く、平成日本の漂流』 筑摩書房ちくま文庫 に3-2〉、2010年3月。ISBN 978-4-480-42698-7。
西田昌司佐伯啓思 『保守誕生 日本を陥没から救え』 ジョルダンジョルダンブックス〉、2010年3月。ISBN 978-4-915933-32-5。
一部執筆/インタビュー書籍 [編集]「技術進歩の諸問題」、『現代経済学の展開』 嘉治元郎・村上泰亮編、勁草書房、1971年。
社会学的基礎 経済体制の原型を求めて」、『経済体制論』第2巻、東洋経済新報社、1978年3月。
「異端の経済学――ケインズハイエク」、『1990年代の日本経済』 経済展望談話会編、経済展望談話会〈経済展望談話会セミナー 第11集〉、1985年3月。ISBN 4-13-043026-2。
「知識人と大衆」、『NHK文化講演会』13、NHK編、日本放送出版協会、1986年2月。ISBN 4-14-008471-5。
日本教育会叢書』第14集、日本教育会編、日本教育会、1987年。
ヘーゲル読本』 加藤尚武編、法政大学出版局、1987年3月。
筑紫哲也井上ひさしほか 『若者たちの大神 筑紫哲也対論集』 朝日新聞社、1987年8月。ISBN 4-02-255738-9。
赤瀬川原平市川右近ほか 『百人力新発売 新しい「知」を担う百人一論 ネオ・インテリジェンス宣言』 文春ネスコ、1988年11月。ISBN 4-89036-752-7。
『時代を仕掛ける 田原総一郎と10人の男たち』 田原総一朗編、フジテレビ出版、1989年9月。ISBN 4-594-00460-1。
岡崎久彦 『情報・戦略論ノートpart2 歴史と戦略について』 PHP研究所、1990年2月。ISBN 4-569-52678-0。
西部邁ほか 『天下国家の語り方 日本と世界、政治と経済をめぐる「神話」の検証!』 JICC出版局別冊宝島115〉、1990年。
『知の位相空間 現代の知性13人へのインタビュー集』 井尻千男編著、HBJ出版局、1991年3月。ISBN 4-8337-5063-5。
村上泰亮 『村上さんを偲んで』 出版社不明、1993年8月。
秦野章・平山郁夫 『秦野章の辛口モーニング 話題の対談番組再録』 テレビ東京編、東急エージェンシー出版部、1994年2月。ISBN 4-88497-024-1。
田中美知太郎・山崎正和ほか 『プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集』 日本文芸社、1994年7月。ISBN 4-537-05034-9。
『メディアの迷走 誇りなき報道が国を亡ぼす』 粕谷一希編著、PHP研究所、1994年11月。ISBN 4-569-54504-1。
勝田吉太郎著作集』第8巻、ミネルヴァ書房、1995年1月。ISBN 4-623-02475-X。
佐々木毅吉本隆明ほか 『日本の境位を探る』 四谷ラウンド、1995年10月。ISBN 4-946515-01-1。
小林よしのり 『新・ゴーマニズム宣言』1、小学館、1996年8月。ISBN 4-09-389001-3。
小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言』1、小学館小学館文庫〉、2001年1月。ISBN 4-09-405141-4。
中上健次柄谷行人中上健次発言集成』2、第三文明社、1995年12月。ISBN 4-476-03196-X。
草柳文恵・若杉敬明ほか 『21世紀の郵便局サービスを考える 郵便局ビジョン2010』 アール・エフ・ラジオ日本編、透土社、1997年9月。ISBN 4-924828-52-1。
小林よしのり 『新・ゴーマニズム宣言』2、小学館、1997年3月。ISBN 4-09-389002-1。
小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言』2、小学館小学館文庫〉、2001年1月。ISBN 4-09-405142-2。
谷沢永一松下幸之助 『Voice主要論文集』 PHP研究所編、PHP研究所、1997年12月。ISBN 4-569-55915-8。
大月隆寛岡田斗司夫 『もの書きがTVに出るということ NHK「ナイト・ジャーナル」をくぐりぬけて』 新紀元社、1998年2月。ISBN 4-88317-688-6。
谷沢永一 『人さわがせ』 バンガード社〈本音を語る 2〉、1998年6月。ISBN 4-915599-13-2。
爆笑問題・宮本政於ほか 『爆笑問題のピープル』 幻冬舎、1998年6月。ISBN 978-4-87728-233-2。
爆笑問題・宮本政於ほか 『爆笑問題のピープル』 幻冬舎幻冬舎文庫〉、2001年8月。ISBN 4-344-40150-6。
岸本裕紀子 『日本の母』 廣済堂出版、1998年8月。ISBN 4-331-50646-0。
矢内裕幸・森毅ほか 『怖いもんなし23人の喋るぞ! 闘う文化人のガクモンのすすめ』 旺文社、1999年4月。ISBN 4-01-055007-4。
加地伸行小浜逸郎 『この思想家のどこを読むのか 福沢諭吉から丸山真男まで』 洋泉社〈新書y〉、2001年2月。ISBN 4-89691-518-6。
『新しい公民教科書 市販本』 扶桑社、2001年6月。ISBN 4-594-03156-0。
『JC発「教育改革」待ったなし』 日本青年会議所編、ぱるす出版、2001年10月。ISBN 4-8276-0187-9。
『鬼畜米英 がんばれサダム・フセインふざけんなアメリカ!!』 木村三浩責任編集、鹿砦社、2003年4月。ISBN 4-8463-0506-6。
『合意形成論 総論賛成・各論反対のジレンマ』 土木学会誌編集委員会編、土木学会〈土木学会誌叢書 2〉、2004年3月。ISBN 4-8106-0469-1。
浜田卓二郎松本健一ほか 『ネバー・ギブ・アップ』 アートデイズ、2004年5月。ISBN 4-86119-028-2。
西部邁述「世界の思想の連峰を眺めると、保守思想の尾根なのです」、『本の本音』 高橋誠・森恵子編著、生活情報センター、2004年9月。ISBN 4-86126-139-2。
憲法の論点 『正論』傑作選』 『正論』編集部編、産経新聞ニュースサービス、2004年10月。ISBN 4-594-04810-2。
絓秀実・井土紀州松田政男西部邁柄谷行人津村喬花咲政之輔・上野昂志・丹生谷貴志 『Left alone 持続するニューレフトの「68年革命」』 明石書店、2005年2月。ISBN 4-7503-2045-5。
阿川弘之森達也男たちの大和 YAMATO』 イプシロン出版企画、2005年。 - 雑誌扱い。
関岡英之佐藤優ほか 『アメリカの日本改造計画 マスコミが書けない「日米論」』 関岡英之イースト・プレス特別取材班編、イースト・プレス〈East Press nonfiction 6〉、2006年12月。ISBN 4-87257-744-2。
平沼赳夫正しい日本を創る会 『日本の正道 真の保守政治を確立するための政策提言』 PHP研究所、2007年7月。ISBN 978-4-569-69291-3。
「列島人の愚行、錯誤そして自殺」、『「日米安保」とは何か』 藤原書店編集部編、藤原書店、2010年8月。ISBN 978-4-89434-754-0。
翻訳 [編集]ミルトン・フリードマン 『価格理論』 内田忠夫・西部邁深谷昌弘訳、好学社、1972年。
シュムペーターのヴィジョン 『資本主義・社会主義・民主主義』の現代的評価』 A・ヒアチェ編、西部邁ほか訳、HBJ出版局、1983年8月。ISBN 4-8337-5002-3。
ティーヴン・ナッシュ 『日本人と武士道』 角川春樹事務所、1997年12月。ISBN 4-89456-045-3。
ティーヴン・ナッシュ 『日本人と武士道』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2004年5月。ISBN 4-7584-3104-3。
音声・動画作品 [編集]『真正保守思想を求めて』2、エピック・ソニー、1989年。
西部邁の「反論を待つ」』2、エピック・ソニー、1990年。
西部邁の「反論を待つ」』3、エピック・ソニー、1990年。
『メディアが世界を変える』第16巻、中京テレビ編、丸善
脚注 [編集]^ 『妻と僕』(飛鳥新社)の巻末に西部の詳細な経歴が掲載されている。
^ http://www.youtube.com/watch?v=Qrt4ZvJ-rmg
^ 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー文芸春秋、1986年、36-37頁。
^ 田原総一朗のコラムによると、西部は安保条約の中身も読まずに反対していた、としている。http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110810/280586/
^ 『寓喩としての人生』175 - 177頁。『妻と僕』61 - 63頁。
^ のちに『表現者』塾に改名。
^ 西部邁栗本慎一郎『立ち腐れる日本』光文社、1991年、225頁。
^ 西部邁「レストランの地主となって」『文藝春秋』平成14年6月号
^ 『思想史の相貌』(徳間文庫)などを参照。
^ 西部邁「大新聞、テレビは統合失調症だ」、『WiLL』、ワック、2011年4月。
関連項目 [編集] 門下生 [編集]佐伯啓思
間宮陽介
宮本光晴
坂井素思
佐藤光
雑誌 [編集]発言者
表現者
北の発言
京の発言
その他 [編集]知性の構造
東大駒場騒動
表現者
船橋市西図書館蔵書破棄事件
保守思想
反米保守

外部リンク [編集]表現者
西部邁FAQ―西部邁のまこも部屋―
西部邁 - Yahoo!百科事典
西部邁: イラク戦争憲法改正、教育、天皇制 - 日本財団図書館
第150回 国会 第1号、参考人 西部邁君 - 参議院憲法調査会、平成12年11月15日
西部邁佐高信の学問のすゝめ: I、II、アンコール、III - 朝日ニュースター
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