山崎行太郎の「月刊・文藝時評」

去れ、想像力なき思想家よ。
村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち…。
 「中央公論」11月号が、突然、どういう思いつきかしれないが、「文学なんて要らない!?」という特集を組んでいるので、ちょっと立ち読みしてみたら、内田樹河野多恵子野崎歓等がそれぞれの立場から「文学の停滞」について書いているのだが、その中身があまりも馬鹿馬鹿しいというか、愚劣というか、おそらく論壇誌中央公論」で、こういう低レベルのお粗末な「文学特集」が組まれるところに、むしろ、文学の停滞というよりも現在の日本の論壇やジャーナリズムの貧困と衰弱が露呈していると言わざるを得ない、と思った。私は、かねがね、「政治や経済を語るには文学や哲学の知識や教養が欠かせない」と主張し続けているが、この程度の「文学理解」だからこそ、日本の論壇やジャーナリズム
の言説が思想的に劣化していくのは当然だろうと思う。文学も不振かもしれないが、論壇やジャーナリズムの思想的劣化はもっと深刻だと思われる。さて、この特集で、内田樹が、「文学音痴ぶり」を発揮して、「批評家が文学を殺した…」などと大口をたたいている。内田樹については、以前にも取り上げたが、その時と今回とは、言っていることが180度、異なる。前回は、「文学的思考」を、経済学や社会学などの社会科学的思考と対比した上で高く評価していたはずである。しかし、「中央公論」11月号では、こんなことを言っている。
 ≪出版関係者と話していると、みんな一様に「文学作品が売れなくなった」と言う。ベストセラーリストを見ても、ダイエット本や『○○ができるようになるための100の方法』といった本ばかりである。(中略)文学が売れないのは、けっして読者のリテラシーが劣化したからではない。作品のクオリティーが劣化しているからである。なぜそう言い切れるかと言えば、村上春樹という国内外で圧倒的なセールスを誇っている作家が現に存在しているからである。≫(「中央公論」11月号、「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」)
 私は、内田樹の粗製濫造に近い「新書」などの本も、ダイエット本とたいして変わらないと思っているが、本人にはそういう自覚はないらしい。「文学作品は売れていない。」「村上春樹は売れている。」「売れないのは読者のリテラシーに原因はなく、書き手の側のクォリティーが落ちたからだ。」…。この、誰がどう読んでも粗雑すぎる、お粗末なエッセイを読みながら、私は「笑い」を抑えきれなかった。文学の停滞や不振を語る言葉が「売れる」「売れない」であり、その具体的証拠が国際的ベストセラー作家・村上春樹である。何故、現代日本文学の停滞や不振、地盤沈下を語るのに、その思想や文体、想像力・・・と言うような文学の思想性のレベルで語ろうとしないのか。ちなみに、東浩紀は、文学
作品が「売れなくなった理由」を、むしろ積極的に評価して、ポストモダン論、オタク論、ライトノベル論とのつながりから、ネット世代やゲーム世代の読書環境や想像力の変化に求めている。「売れない」という一点にこだわる内田樹の文学停滞論が、いかに単純素朴かがわかるというものだ。ちなみに、先月号で、私は、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」だけが優遇されている最近の文芸誌の悲惨な状況について書いたが、つまり文学不振の根本原因の一つが「文壇や文芸誌の世界にホンモノの批評家がいなくなった」「村上春樹を批判する批評家が排除された・・・」ことにあると書いたが、実は、内田樹も、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」の一人である
。そもそも、専門の文芸評論家でもない内田樹の「最終講義」(「文学界」)なるものが文芸誌に掲載されたのは、何故か。内田樹が「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家」だったからだ。たとえば、文藝評論家の井口時男も、今年3月、東工大教授を退官したが、「最終講義」なるものが文芸誌に掲載されたのかどうか、私は知らない。内田樹は、専門は「仏文専攻」「フランス現代思想」だそうだが、現代日本文学にも批評にも「盲目」である。しかし、そういう文学や小説に盲目な人が歓迎されるのが最近の文芸誌である。文壇業界の最後のドル箱としての村上春樹をベタ褒めしてくれさえすれば、内田樹がいかに「文学音痴」「小説音痴」であろうとも歓迎してくれるのだ。この「中央公論」の特
集に登場している野崎歓も、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」の一人である。最近の文芸誌の誌面を飾っていする批評家の大部分は、若干の例外もないわけではないが、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」であると思って間違いない。
■批評家の不在が文学や思想を堕落させた…。
 さて、問題が何処にあるかは明らかである。内田樹が言うような、「批評家が文学を殺した」のではない。「マトモな批評家の追放・排除が文学を殺した」のである。驚くべきことに、内田樹は、「時代小説」を評価しつつ、こんなことまで言っている。
 ≪さきほど「例外的に売れているものもある」と書いたけれど、例外的に売れているものの一つは「時代小説」である。(中略)そして時代小説(に限らず中間小説や大衆小説)が純文学をしりめに隆盛を極めている理由は、そこには批評家がいないからである。純文学をここまで委縮させてしまった最大の理由は批評にあると私は思う。≫
 内田樹の「批評家が文学を殺した」という「批評家犯人説」がまったく無意味だとは思わないが、それにしてもお粗末な論理であると言うほかはない。こういう思想的レベルの劣化そのものというしかない文学論、小説論が、論壇誌で、堂々と展開されるところに、論壇やジャーナリズムの劣化がある。そもそも昔から大衆文学や中間小説は「売れる」ことを第一の目標にしているのであり、純文学は「売れる」ことを最大の目標にしないからこそ、つまり「売れ行き」という資本主義的商品交換の論理とは別の、もう一つの文学的な価値基準を持っていたからこそ、存在意義を有していたはずである。とすれば、純文学の復活は、「売れる」ことではなく、資本主義的な出版資本からの「奴隷解放」から始まると
言わなければなるまい。
 ところで、河野多恵子ぐらいは、もっと文学的な問題を指摘しているかと思ったら、彼女も、こんなことを言っている。
 ≪ところで、小説とは純文学であれ大衆文学であれ、楽しむものだとしか、私には思えない。ところが、そのどちらの場合でも、とかく〈いかに生きるべきか〉が求められているようである。日本で〈いかに生きるべきか〉が小説のテーマの中心になった始まりは、もちろん自然主義私小説である。数も少なくて互いの私生活にも通じ合っている当時の狭い文壇のなかでの作家としての生き方をテーマにすることで、〈いかに生きるべきか〉が始まったのだった。(中略)そういうわけで、今日でも純文学であれ大衆文学であれ、〈生き方の指針〉的な要素を思わせる性質のものが、実は多い。推理小説にしてさえ、そうなのである。≫(河野多恵子「小説は楽しむもの/生き方の指針ではない」)
 むろん、私は、河野多恵子のこの「小説論」「文学論」に反対である。おそらく、河野は、谷崎潤一郎三島由紀夫等の小説を念頭に置いていると思われるが、私は、谷崎や三島の小説にも「生き方の指針」のようなものを感得する。そこには、人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれている。むしろ現在の小説や文学の停滞は、「生き方の指針」となるような人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれなくなったところにあるのではないのか。先月の六万人の「脱原発デモ」で、作家の大江健三郎と批評家の柄谷行人が先頭に立っていたらしいが、作家や批評家が政治運動や市民運動、あるいは革命運動などの先頭に立つとい
うことの意義を、私は否定しない。むしろ文学が恐ろしいのは、そこに理由がある。たとえば、私はつい最近、某雑誌の企画で、「赤軍派議長」だった塩見孝也と対談したが、彼は、私が小林秀雄江藤淳に影響を受けていると話したところ、「私も彼らと感性は似ている。江藤淳の『夏目漱石』論は熱心に読んだ」と言った。私は、「やはり、そうだったのか」と思った。文学が停滞し、地盤沈下しているとすれば、原因は、むしろ「小説は楽しむもの」としか考えなくなった作家や批評家にある。「去れ、想像力なき思想家よ」(ベンヤミン)である。