橋下徹論・・・「大衆への反逆」論。(オルテガ・イ・ガセット)

オルテガ「大衆の反逆」・西部邁・国家とは?
考え事 | 16:52

我善坊さん、さわやかNさん有難うございます。

今回もしつこく、オルテガ西部邁について補足します。

1. 西部氏を知る人は若い世代には少ないでしょう。

60年安保のときの全学連副委員長、もと東大助教

(社会経済学)、いわゆる東大駒場事件で辞職、以後保守主義

標榜する評論家。



2. 同氏は戦後の日本でオルテガを高く評価した最初の1人ではないか。

少なくとも私は、1981年のエッセイ「“高度大衆社会”批判

オルテガとの対話」(『大衆への反逆』所収)で知り、読み始めた。

例えば西部は以下のように紹介する。

・・・オルテガ的な精神は大衆によって扼殺(やくさつ)された。半ば無自覚

にではあったがオルテガ殺しの儀式があったにちがいなく、それ以後、大衆を

批判するのがタブーとなった(同書75頁)

・・・少し皮肉なことに、オルテガは知識人のための知識というものを

軽蔑し、大衆の真ん中にいようと努力した人である・・・“一緒に独りで”

いることの緊張に堪えぬく精神、それがオルテガのいう貴族・・・たることの

条件である・・



3.西部氏については最近は全くフォローしていませんが、

1980年代半ばの著作(例えば『幻像の保守へ』所収の「相対主義の陥穽」

進歩主義の末路」「福田恒存論、保守の神髄をもとめて」など)が

いちばん活躍した時期でしょう。

・・・たとえば、保守主義を特徴づける中庸もしくは節度の態度に

ついていえば・・・・「節度の逆説」というものが発生する。・・・

つまり節度を守り抜くには常軌を逸した熱意がならなければならない。

熱狂は保守主義のいみきらう態度であるが、熱狂を回避することにおいて

保守主義は熱狂的でなければならないのである・・・(同書39頁)



4.オルテガについても補足しておく必要があります。

『大衆の反逆』では“大衆社会批判”ばかりがよく知られていますが、

実は同書は、第1部:大衆の反逆と

第2部:世界を支配しているのは誰か

の2部構成になっている。

そして第2部は、真正のヨーロッパ主義者であるオルテガがヨーロッパこそ

彼の用語による「貴族」として復権する必要がありそのための未来は

ヨーロッパの統合にあるという主張が中心となる。

即ち、前回のAとBの区分けに沿えば、ヨーロッパこそBであり

その他の世界はAである。

再び、ヨーロッパが世界を指導していかねばならない、それは19世紀の

自由主義を守ることから始まる、ファシズムとボルシェビズム

マルクス・レーニン主義)は徹底的に否定されねばならない。

(ここで、彼は、社会や個人についてのA対Bという認識と図式を

第2部で国家にあてはめることになる)



5.まあ、こういう言説ですが、ここで重要なのが、

彼の「国民国家」観です。そこから「統合」の意義と可能性

が説かれる訳ですが、以下に(かなり多いですが)引用しましょう。

・・・国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる1つの

社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものだ

(P.220)・・・



・・・本源的に国家は、多種の血と多種の言語の統合にある。つまり国家は

あらゆる自然的な社会の超克であり、混血的で多言語的なものである・・・



・・・国家とは何よりもまず1つの行為の計画であり、協同作業の

プログラムなのである。人々が呼び集められるのは、一緒に何かを

なさんがためである。国家とは、血縁関係でもなければ、言語的統一体でも

領土的統一体でもなく、住居の隣接関係でもない。

それはダイナミズムそのもの――共同で何かをなそうとする意志――

であり、ゆえに国家という観念は、いかなる物理的条件の制約ももっていない

のである(P.233)

・・・国民国家(ナショナル・ステート)を形成したのは愛国心ではない

のである・・・(大事なのは)共通の未来である。その本質は、第1に

共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に

対する人々の支持でである(P.231)

・・・国民国家はけっして完結することはない。国民国家はつねに形成の

途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、

第3の可能性は与えられていない・・・



・・・世界は今日、重大な道徳的頽廃(たいはい)

におちいっている。そしてこの頽廃はもろもろの兆候の中でも特に

どはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており、その起源は

ヨーロッパの道徳的頽廃にある。



・・・最後の炎はもっとも長く、最後のためいきはもっとも深いものだ。

消滅寸前にあって国境――軍事的国境と経済的国境――は極端に

敏感になっている。しかし、これらナショナリズムはすべて袋小路なの

だ・・・その道はどこにも通じていない(P.262)





・・・ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家(ネーション)を

建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。

そのとき、ヨーロッパはふたたび自信をとり戻し、真正な態度で自己に

大いなる要求を課し、自己に規律を課すにいたるであろう。



6.以上、まことに長々と引用しましたが、その理由は、以下にあります。

(1) どうも、オルテガ『大衆の反逆』の前半ばかりが喧伝されて

後半への言及が少ないのではないかとかねて考えている

(私の勉強不足で知らないだけかもしれないが、西部でさえ

まったく触れていない)



(2) ご紹介した、オルテガの国家観が、肯定するか否定するかは別にして

きわめて重要な意味をもっている

という2点です。

さらにそれは、

・日本の戦後の国家観はおそらく以上と対極にあるのではないか

(少なくとも、日本の国籍法の思想とは根本的に違う)

・戦後徹底的に否定された「大東亜共栄圏」という思想

をふたたび考察することに意味があるか無意味なのか

・中国の覇権主義ナショナリズムとが

警戒されているが、実はナショナリズムというより

(少なくとも一部の)リーダーはオルテガ的国家観を信奉しているのでは

ないか?

・これからの日本は、中国に対抗するためにも東アジアや太平洋の

諸国との協調をいっそう進めていかねばならないと言われるが、

それはこのような国家観とどう関係するのか、しないのか?

たいへん長くなりましたが、こんな妄想を追いかけております。


Ads by Google

ginza-calla.com/ Ads by Google

コメントを書く
我善坊 2011/02/22 11:31
これ以上コメントを書き込むのは話題を横取りし、まるで「ブログ・ジャック」しているようで気が咎めますがー。
1)慥かにひと頃西部がオルテガを話題にしていましたね。(「キツーイ皮肉」ではなかったようで、失礼しました)
我々より上の世代からオルテガの名前を聞くことがなかったとすれば、戦後の雰囲気の中で彼を正面から採り上げるのに躊躇いがあったのではないか?恰も彼らは旧制高校の教養から育ってきたのにも関わらず、旧制高校の復活を云うのに恥じらいを見せていたように。偶々『丸山眞男集」(全集、計17巻)を調べたら、オルテガの名前が出てくるのは僅か二箇所にすぎませんでした。
しかし彼らがオルテガを読んでいなかったかというと、そんなことはない。戦後の民主主義についてのあの世代の発言には、オルテガの影響がはっきりと見て取れるように思います。
2)私は、あらゆる思想家はその時代状況の中で読むべきではないかと考えています。
オルテガの議論のほとんどは(幸か不幸か)現代にもそのまま警告として生きていますが、なかには現代では文字通りには受け取れないものもあります。『大衆の反逆』の後半部があまり引用されていないとしたら、彼の欧州中心主義や国民国家論にあるのかもしれません。(川本さんの引用された箇所―5の後段―は、今日のEUを予言しているようで興味深いところですね。ただし彼が此処で言う「ネーション」は「欧州人」や「中国民族」などのように、従来のネーションを止揚する概念で、今日ではこれは警戒の対象になっています。チベットフランコ時代のバスクに見るように、本来のネーション(民族)の文化的統合を脅かしかねない、という警戒です)
『大衆の反逆』が書かれた1930年は、第一次大戦後で国民国家の価値が最高度に高められた時代。しかもスペインは、外見こそ15世紀末以来統一国家を成していましたが、各地方の割拠性が強く、英仏独のような国民国家とは少し違った様相を見せていた(これは今に至るもスペインの特色の一つです)。オルテガはその中で、ことに英国をモデルとした国民国家(当然その背後の国民市場)の形成を目指して論陣を張っていました。
その国民国家論(ナショナリズム)が、第二次大戦の災禍を知った後では戦間期のように手放しでは礼賛されなくなり、ことに、既に20世紀半ばまでに国民国家を形成しえた先進国では、ナショナリズムは自制の対象とされるに至っています。従って、本書の後半部分は文字通りに読むのではなく、時代状況を超えたオルテガの普遍性は何か、という読み方が必要になると考えます。
3)「大東亜共栄圏」という(「思想」ではなく)「理想」は、十分に再検討に値すると思います。もちろん一方で、それが実は「遅れてきた植民地主義」の理論武装にすぎなかったという歴史も、冷静に見ておく必要があります。しかし明治国家の指導者たちがどういうつもりで言ったとしても、それをまともに信じて戦場に赴き、死んでいった人々がたくさんいたことも事実です。(日本の敗戦後、中国やインドネシアに残って毛沢東スカルノを助けて独立運動に従事した元兵士も少なくなかった)
彼らの死を犬死にさせないためにも、「大東亜共栄圏」の理想に照らして満州事変以来の歴史を冷静に見、理想を理想として再現してみる必要があるのではないか?
EUや中国、あるいはアメリカやロシア(いずれもNation Stateではなく、「帝国」=超民族国家)などとの比較という観点も、必要と思います。

さわやkN 2011/02/22 14:32
私がヤバイと思っているのは「政治家の大衆化」ですね。複雑化している現代社会では、大量の情報に基づいて、高度な判断と合意形成をスピーディーにしなければいけないのに、最近やっていることは、多数決という民主主義の武器を暴力的に議会で振り回して自分の議席を守ろうとするだけのチャンバラ劇に見えます。危険な状態ですね。制度的な宿命をどう克服するか・・・。それよりヤバイのは「・・・国民国家(ナショナル・ステート)を形成したのは愛国心ではないのである・・・(大事なのは)共通の未来である。その本質は、第1に共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に対する人々の支持である」今、この国で異なった世代は共通の未来を見ているのでしょうか?この定義において日本はすでに国家として分裂してしまっていると危惧します。それとは対照的に、国民国家を超える、資本主義市場という新しい帝国の描く夢を世界の多くの人は共通の夢として夢見ている。圧政のもとに実現できなかった自由と富へのアクセスの舞台へ躍り出ようとしている。このギャップはでかいですね。

さわやかN 2011/02/24 12:23
前回は、世代という時間的な断絶に関し、少し言及しましたんで、今度は空間的に。バスク語カタルーニャ語をいまだに国内に抱え、内戦の歴史を持つスペインと我が国を比較してみるに、今に見る日本の地方の疲弊は労働力を都会(中央)に奪われた以前に、言葉と誇りを中央に奪われたからであるのかなと、ふと思いました。奪った尖兵はマスコミですね。アイデンティティの1つの源泉であり、生活言語である方言を奪われ、抽象言語(支配言語)としての共通語で会話をせざるを得なくなった語族の集合体としての「国民国家日本」であったのかも。こう考えると韓国や南洋諸島の言語を啓蒙の名のもとに奪っても無頓着なのも理解できますし、代議士が、日本という国の公共的な性格では無く「オラが国さの代表」として中央への抵抗と媚の2面性を持つ性格が強いのも腑に落ちます。西洋(の知識人)が数千年来悩んでいた身体性と精神の分離の葛藤を、ここ百年あまりで生活言語を捨て支配言語へという経験を出発点(※)に、全国民が経験し、葛藤しつつあるのが現在の日本とベルリンの壁崩壊後の旧共産圏(いずれも非ヨーロッパ)であると妄想しました。「逝きし世」第2巻は進行中かもしれません。※これに加え農民(家業)から賃金労働者へ、父系長子相続から核家族へ・・・。エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ・・・。


(読者の声3)(追伸)橋下・大阪維新船中八策」の骨格にツッコミを入れる。
 橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会が次期衆院選の公約として策定する「船中八策(維新八策)」骨格の全文が、漸く報じられた。
(「橋下維新 これが『維新八策』だ! 骨子全文」 産経新聞 2月21日(火)16時8分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120221-00000546-san-soci
維新の地方議員や3月に設立する維新政治塾での議論も踏まえ、最終決定する模様だ。
 読んでみると、「骨格」だけあって、項目だけが踊っていて何やら情報整理術のKJ法の作業中といった感じだが、一言で総括すれば 「ナショナル・ミニマムを伴う自立社会の建設」という理念が感じ取れ、筆者は全体の方向性としては賛成の立場である。
大阪維新の会は、13日の全体会議での発表に合わせ、ペーパーを非公式扱いで流したため、当日報じられた内容は各紙ともバラつきがあった上に、「骨格」のそのまた要約というものだった。
今回、明らかになった「小骨」の部分について、その時に書いた拙文(「橋下・大阪維新船中八策』の骨格に現時点でツッコミを入れる。」
http://www.pjnews.net/news/819/20120215_2
等)を補足する形で、各論についての不明点、懸念点及び異論等が在る項目のみにつき、以下にそれを記す。

◆リバースモーケージ(所有不動産を担保に年金のような融資を受ける仕組み)の制度化
 通常この仕組みは、契約期限が来ると全額融資を返済しなくてはならないものだが、無期限とか年齢150才期限等を想定しているのか?

◆新エネルギー、環境、医療、介護などの特定分野に補助金を入れて伸ばそうとするこれまでの成長戦略と一線を画する「既得権と闘う」成長戦略〜成長を阻害する要因を徹底して取り除く

 ここでイメージされている成長戦略の実行手段は、規制緩和地方分権であろう。
主軸に据えるのはそれでよいが、弊害は多い補助金、税制措置についてもサンセット方式で透明・時限的なものであれば選択肢として排除すべきではない。

また、有望だが民間だけでは参入に躊躇するものは、「新重商主義」の観点から民間と折半した国の直接投資(リスクもビジネスライクに完全に折半する)により国家プロジェクトとして進めるべきである。

労働市場の流動化、自由化→衰退産業から成長産業へ、外国人人材の活用
 外国人人材の活用は、日本人の雇用と重なる分野に於いては、一方で競争を促進し付加価値を高めるというメリットがあるが、一方では日本人の雇用を食って失業者を増やすデメリットもあるので、精緻に設計する必要がある。概ね、ハイレベル分野に外国人を入れるならばメリットの方が大きいであろうが、ミドルレベル分野に入れるとデメリットの方が大きいであろう。
 また、日本人がやりたがらない、いわゆる3K分野に入れると「ゲットー」の出現等の別の問題が生まれる。

◆一生涯使い切り型人生モデル
これを文字通り徹底すれば、相続は一切出来なくなり共産主義に近付くが、労働意欲減退、海外資産逃避を防ぐため、少なくとも一定財産の留保は必要だろう。

脱原発依存、新しいエネルギー供給革命
「新しいエネルギー供給革命、脱原発依存」の順に、在るべき時系列に合わせ順番を入れ替えて表現すべきだろう。
代替エネルギーの現実的な目処が、脱原発の前提条件として必須である。
 なお、原発政策については、福島原発事故の解明、責任者の追及・処罰、再発防止へ向けての体制一新が必要なのは言うまでもない。

◆自主独立の軍事力を持たない限り日米同盟を基軸
 ある週刊誌が指摘していたが、内外から同盟破棄が最終目的のように捉えられてしまう。
「自主独立の軍事力を持つ事と、日米同盟の深化を同時に進める」等のように表現を変えるべきだ。
日本が覇権国家にならない限り、否なってもなお、安全保障上、大国と同盟をしない事は有り得ない。即ち、少なくとも安全保障の上では、予見し得る未来に於いて米国を取るか中国を取るかの二者択一である。
 イラク戦争等を起こした米国は、決して正義の国ではない。
しかし、外交・防衛とは相対的なものであり、大国との関係では、比較して国際的大義国益に適う方、よりマシな方を同盟相手に選ばなければならない。

 なお外交には理念・原則がなくてはならない。それが無ければブレる。ブレれば必ず負ける。例えば、「国際的大義を伴う長期的国益の追求」のようなものを確たる外交の基本理念として掲げるべきである。
 以上、引き続き「船中八策(維新八策)」の具体化・明確化と読者の「橋下ウォッチ」に役立てば幸いである。
 (KS生、千葉)


>