指定弁護士の控訴について

 ◇4月26日、東京地裁(大善文男裁判長)が、「無罪判決」
 ◇5月9日、検察官役指定弁護士3人が、東京高裁に「控訴」
 ◇5月15日、小沢一郎元代表が「重大決意を固めた」と伝えられる。



小沢一郎−虚偽報告書流出−イスラエル佐藤優−ロシア−小沢一郎裁判控訴
2012年05月10日 00時46分02秒 | 【政治】《陸山会事件の捜査をめぐる虚偽の捜査報告書とみられる文書が、インターネット上に流出した。折しも、東京地裁の無罪判決を受けて民主党による小沢一郎元代表党員資格停止処分の解除、そして検察官役の指定弁護士が控訴するかどうかを最終判断するタイミング。流出の意図は、そして影響は−。》
〜2012年5月9日 東京新聞

東京地裁小沢一郎民主党元代表に下した無罪判決に対し、検察官役の指定弁護士が控訴を決め、小沢氏の刑事被告人としての立場が継続することは、復権への動きを本格化させる同氏にとって大きな制約となる。同氏周辺には驚きも広がっており、弁護士資格を持つ辻恵衆院議員は9日、記者団に対し「覆されることが考えにくい判決の中で、控訴することは極めて遺憾だ」と述べた。》
〜2012年5月9日 時事通信社

 ”その手の本”を読んでいる方ならば、表題にはピンとくるはずだ。
 佐藤優は何か知っているのではないか?
 取調べの際、石川知裕議員にICレコーダーでの録音を進言したのは佐藤優だし、彼はロシアとの深い関係を持つ外務省ロシアハウス出身の元外務官僚だし、加えてイスラエルとの関係もばかにならない。
 きっと佐藤優ならば何か知っているはずだし、場合によっては少なからず関与しているのかもしれない。
 しかし、9日の東京新聞を読む限り、彼はまるで先回りをするかのように自らの関与を”迷惑千万”と言って否定している。しかし、インテリジェンス・オフィサーの否定というものは、傍目からは意味のないことのようにも映る。

 そういったことを考えている最中に、小沢裁判の「控訴」のニュースが飛び込んできた。これには正直、並々ならぬ嫌悪感を感じた。
 小沢一郎に対する控訴は明らかにやり過ぎだ。今回のような国策捜査(もはや国策捜査の域すらも超えているが)はメディアも一枚噛んでいるのが普通だが、そのメディアとの同調性からも逸脱し、さらに指定弁護士による歯切れの悪い、言い訳がましい記者会見などは、無様を通り越して彼らが哀れですらある。
 どれほどの実弾(Money!)が動いたのか、はたまたどれほどの圧力が掛かったのかは不明であるが、この控訴劇はゆらぎの振幅幅が大き過ぎるのである。

 今回の控訴はどうやら一部の司法官僚が深く関わっているようである。つまり、小沢一郎は司法官僚によって潰されたとの”噂”がある。
 どなたか真相に詳しい方は教えて欲しい。
 どなたか事件全体を今一度分かりやすく俯瞰して欲しい。


小沢一郎無罪判決報道

実は、まだ判決骨子+αをざざっと読んだだけで、判決の詳しい中身を把握できていないので、判決そのものに関するmewの感想は週末に書くことにしたいのだが。<判決要旨も読めるといいな〜。>

 昨日、無罪判決が出された時の状況は、このようなものだったという。

『裁判長「それでは被告人に対する政治資金規正法の罪について、当裁判所の判断を示します」

 「主文、被告人は無罪」

 《法廷がざわつく。小沢被告は軽く一礼した》

 裁判長「もう一度、いいます」

 「主文、被告人は無罪。分かりましたね」

 被告「はい」

 《今度は、さらに大きな声で返事をし、深々と頭を下げた》

 《一方、最強弁護団を率いる弘中惇一郎弁護士は思わず、「よし」と一声漏らした》

 《指定弁護士の1人は、苦い表情を見せ、じっと目を閉じて天を仰いだ》

産経新聞4月26日・公判詳報より)』

<ちなみにTVのニュースによれば、傍聴席にいた小沢氏の辻恵議員が、「よし、当然だ」と声を上げ、ガッツポーズをしたとか?^^;「辻氏は弁護士なんだから、法廷で大きな声を出しちゃダメでしょ〜」とツッコミつつも、そうしたくなる気持ちはと〜っても理解できたりして。(・・)>

 そして、小沢氏は、公判が終わった後・・・・

『「そうか、そうか。ありがとう」。判決言い渡し後の104号法廷別室。判決内容を詳しく説明する弁護団弘中惇一郎弁護士の言葉に、元代表は緊張が解けた様子で笑顔を浮かべた。
 公判を毎回傍聴し、同席した民主党辻恵衆院議員が「おめでとうございます」と声をかけると、「ありがとう」と右手を差し出し強い握手を交わした』という。(毎日新聞4月27日)』

高橋洋一の反・消費増税論


≪ 高橋洋一氏が反論!「その消費増税論議、ちょっといいですか」 番外編
 日銀の金融政策で財政再建と円安誘導は簡単にできる
 2月に日経ビジネスオンラインが連載した「今さら聞けない消費増税」に対し、嘉悦大学教授で元財務官僚の高橋洋一氏がツイッター上で「ミスリーディング だ」と指摘してきた。
 とりわけ高橋氏が反論するのは第2回「日銀がもっとお金を刷って経済成長すれば、増税は不要では?」の中にある国債の日銀引き受けに関するくだりだ。
 連載で森信茂樹氏は「お金を刷れば経済は成長する」という主張に対して、「日銀引き受けは財政法で禁じられている」「流通市場でするのと発行市場でするのは違う」「日銀引き受けは通貨の信認を損なう愚考」などと否定していた。
 それに対し、「自分は(旧大蔵省理財局や官邸で働いていたとき)毎年やっていた」「但し書きがあり、国会の議決を得た範囲ではできる」などと激しく反論する。高橋氏は、徴収漏れ対策や公務員改革などについても、「増税の前に出来ることがたくさんある」「増税しなくても財政再建が出来る」「国家公務員改革は、増税しなくてもやる必要がある」と主張する。  そこで政策実務の経験が豊富な高橋氏に、改めて日銀の金融政策や消費増税に対する考え方を聞いてみた。

――日経ビジネスオンラインで2月に連載した「今さら聞けない消費増税」で、高橋さんは2回目の日銀がもっとお金を刷って経済成長すれば増税は不要では? に対して、国債の日銀引き受けを「禁じ手だ」とする説明を「ミスリーディングだね」とツイートしていましたね。どの辺がミスリーディングなのでしょうか。

高橋:というのは、私は自分が毎年やっていたからね。禁じ手と言うけれど、小泉政権の時の2005年、円安にするのに一番簡単なのが日銀引き受けだったので、(官邸にいた)私が“がばちょん”とやったのです。  (「既発債の買い入れというのは、日銀の金融調節の一環として流通市場でしているもので、発行市場で買い入れするのとは意味が全く違います」という)国債の発行市場、流通市場を区別する説明も観念的だね。私は大蔵省(現財務省)の国債課で担当官をしたこともありますが、国債を発行するためだけの発行市場なんて特別にない。実際にはすべてが流通市場で、たまたま売るモノが新発モノなら教科書の中で発行市場と呼んでいるだけですよ。

――日銀引き受けは、財政法の明文で禁止されているとのことですが。

高橋:そうだけれ ど、但し書きがあり、国会の議決を得た範囲ではできるのです。僕は理財局にいたとき毎年日銀引き受けを実施したし、官邸にいた時もやりました。2005年に23兆円分を引き受けた記録は誰も超えていません。だから2005年前後は日銀のマネー発行量が多い。増税なしで税収を増やすために、お金を刷ったから です。もちろんハイパーインフレになどならず、少し円安になっただけでした。

――たくさんお金を刷っても、ハイパーインフレにはならないのですか?

高橋:程度問題だ けれど、多少のインフレになるくらいですね。今はデフレでしょう。物価上昇率が5%以内のインフレぐらいにはなるかもしれません。そもそもハイパーインフレと言っている人は、ハイパーインフレって定義、知っているんですかね? 

■お金を刷ることと名目成長率の間には相関関係がある

――物価上昇率が20〜30%ぐらいのことですか。

高橋:国際会計基準では3年累積で100%、年率30%くらいという話だけど、まあいいでしょう。年率20%のインフレにしようと思ったら200〜300兆円刷ればいいでしょう。通常ハイパーインフレというのは、130倍ぐらいのインフレのことを言います。130倍にさせるなら1京円刷るという話になっちゃうよ。
 お金を刷ることと、名目成長率が高くなることとの間には、相関関係があるのです。10年間に大体10%ずつ毎年お金を増やすと、その間の名目成長率は 10年間平均で6%ぐらいになる。2000年代、お金が「じゃぶじゃぶだった」と良く言うでしょう。あれは数字の裏づけがない。「じゃぶじゃぶ」って言う けれど、どうしてじゃぶじゃぶと言えるのでしょうかね。

――ある経済学者の方はデータと共に、「2005年にたくさんマネーを刷ったけれど、デフレは止まらなかった」とおっしゃっていました。

高橋:それは、日本だけに限った過去との比較データでしょう。私が、お金を10%程度刷ったら6%のインフレになると言ったのは世界での話です。私は世界各国のマネーサプライなどの増減率と経済成長率の10年間平均も調べています。すると2000年代にお金を刷り、成長している国がたくさんある。一方、世界広しといえど、一番お金を刷らず、成長していないビリが日本です。私が「じゃぶじゃぶ」と言う根拠がないと言うのは、そのためです。
 2005年に23兆円分の国債を日銀引き受けした時にされた批判は、円安による景気回復で、(輸出産業依存の)外需主導だというものでした。でも法人税収は上がった。この2005年をどう評価するかです。当時はバブルで、民主党が円安バブルでけしからんと言ったけれど、増税せずに財政再建できたのも事実 です。
 マクロ経済の観点からも、消費税増税をしなくても財政再建ができます。小泉政権から安倍政権までの間にプライマリー収支がマイナス28兆円からマイナス 6兆円まで改善したけれど、その間に1回もまともな増税をしてないでしょう。今の民主党政府には不都合な事実でしょうけれどね。
 円安にすると、輸出企業の業績が伸びて法人税収が上がる。輸入企業は少し不利になるけれど、GDP国内総生産)は増える。どの程度円安にしたらどの程度GDPが増えるかもある程度分かりますよ。為替レートととても関係があるし、為替レートと税収も関係がある。

――税収にも関係があるのですか。

高橋:ありますよ。為替レートを安くすると輸出企業の収益が改善して税収が上がるということです。円安にするかしないかは、為替介入次第だと言う人が多いのだけれど、実は関係ない。

■円安にするなんてすぐに出来る
 2月14日に日銀が金融緩和と「インフレ1%メド」を掲げた後の為替の動きを見れば、円安になんてすぐに出来るのが分かったでしょう。為替レートは、 ベースマネーにおける米ドルの量と日本の円の量で決まるだけです。円の量を増やすと、円がドルの量より相対的に多くなって円安になる。日本の円を分母、米ドルの総量を分子にして割り算すると大体為替が分かる。ソロスチャートとも、マネタリーアプローチとも呼ばれている。簡単に計算できるように丸めた数字で言えば、中央銀行の資金供給量を比較すると、日本が今大体140兆円ぐらいで米国が2兆ドルぐらい。でこぼこがあるけど、大体140兆円と2兆ドルで割り算すると70円。
 1ドルを100円程度にしたかったら140兆円のマネタリーベースを200兆円に増やせばいい。マネタリーベースの定義は日銀券+当座預金です。当座預金を入れないで計算する人もいますが。米ドルでも定義は同じです。これで半年から1年の間に、7割程度の確率で100円になる。この間の日銀の10兆円の資金供給枠も、2兆ドルで割り算すれば5円ぐらい動くでしょう。これを知らないで政権運営してはいけないぐらいの話だと思いますけれど、今の政権の人は知 らないのでしょう。

――日銀がお金を刷れば、経済は成長するのでしょうか?

高橋:その通りですよ。人間はおカネが好きでしょう。おカネ見せられたらよく働きますよ。よく識者の人たちが引き合いにするスウェーデン英米と日本の違いは、社会保障制度だけでなくマクロ政策をきっちり実行している点です。国債引き受けにしろ、ほどよく実施すればいいのです。そんなに心配なら日銀法を改正してインフレ目標を作るべきです。

――森信さんは連載2回目で、(経済成長すれば増税はいらないとの主張は)「マネーを供給しても金融機関は企業にお金を貸さない、企業も収益の上がる事業をなかなか見つけられないという状況に目をつむっている」とおっしゃってましたが。

高橋:円安なら GDPが増えるとさきほど言いましたね。少し理論的な話ですが、お金を刷ると半年ぐらいの間に予想インフレ率が上がる。その間、日銀がしっかり運営していれば、名目金利は一定で推移します。すると「名目金利−予想インフレ率」、つまり実質金利が下がるでしょう。実質金利が下がると半年から1年ぐらいの間に 企業は設備投資を増やします。最初はお金が余っているから、ほとんどの企業は内部留保で済ませるでしょう。内部留保がなくなってきて初めて銀行借り入れが増えるのですが、これが2〜3年の間に起こります。過去の例で見ても銀行貸し出しは一番最後、景気が上向き出してから伸びてくる。これは政策の効果ラグといって、きちんとした計量分析で分かっています。

バーナンキ議長はお金をガシャーンと刷った
 FRB(米連邦準備理事会)のバーナンキ議長はそれを分かっているから、リーマン危機の時にお金をガシャーンと刷った。私はその時3年ぐらいで景気回復すると主張したけれど、実際に回復しました。こんな話は論争の対象でなく既に結果が出ていることです。日銀を擁護してきた人も、最近は黙るしかないん じゃないですか。

――金融政策をきちんとすれば財政再建のための増税は必要がないということですか。

高橋:消費税をどう捉えるかという話になりますけれど、財政再建のために必要ですかと聞かれたら、もうちょっと違う手がありますと答えますね。未来永劫、消費税増税は必要 ないのでしょうかと聞かれたら、それは為政者によるとしか言いようがないけれど。国民負担率を(増税の)理由に挙げる人がいるけれど、それは政府の規模を どの程度と考えるか次第だから、最後は国民の選択で決めることでしょう。
 そもそも消費税は、普通の国では地方の一般財源です。だから分権化した後、地方の行政サービスを向上させるために地方の消費税率を上げますという話なら分かる。消費税を国の税金として社会保障に使おうとしているのがおかしい。社会保障の年金はほとんど国の業務ですが、消費税が国の税金なのか、地方の税金なのか一切議論をしないで話をしている。
 このことを議論すると、社会保障目的税化が崩れてしまうでしょう。だから社会保障目的税化を前提とした議論しかなく、社会保障目的税化は消費税を国税として固定する前提でいる。そこが崩れてしまったら初めから議論が違うという話になるから、そこは財務省が主導する政府は絶対に触れない。

――社会保障目的税化って、そもそもできるんですか。

高橋:特別会計を使えばできる。でもそんな国は先進国の中にはありません。消費税は地方の一般財源が普通ですし、国の規模が小さくなると国も地方もないので消費税は国の「一般財源」になるのが普通です。日本では「社会保障目的税化」などという、どこの国にもない話をしている。
 社会保障と税の一体改革でも社会保障に何も中身がない。民主党がやるなら、最低保障年金と後期高齢者医療制度の廃止に代わるものがないと社会保障改革にならない。今の一体改革はスタート時点で官の共済年金と民の厚生年金の一元化やパートタイム労働者への年金拡大が入っていたけれど、この2つはマイナーだから、これらがあっても社会保障改革とは掲げられませんよ。社会保障と税の一体改革大綱と言うけれど、あれは消費税大綱ですよ。
 どうして増税したいのかは、歳出規模を見るとすぐに分かります。自民党の時の歳出規模は大体83兆円でほぼ一定です。麻生政権の時だけリーマンショック で100兆円でした。民主党政権は予算を3回作って平均が大体94兆円。10兆円程度増えていますね。理由は簡単で、予算組み替えが出来なかったからで す。自公政権の政策の上に自分の政策をまるまる乗せたからこうなった。増えた分だけを消費税増税でやろうと言っているのですよ。金額的に、ちょうどぴったんこでしょう。

■シーリングを決めず予算組み替えできる体制でなかった
 予算の中身を見てもそう。予算組み替えをすれば総額は一緒のはず。民主党政権になった直後の予算編成で、シーリングを決めずに、予算組み替えをできる体 制になっていなかった。組み替えをやるとマニフェストに書いてあるんだけどな。例えば子ども手当を新規要求するとなれば、子ども手当の関連予算を全部外さなければいけないのに、特殊法人経由の子ども手当関連の支出を残し、一方で直接給付で子ども手当を支給するから、二重の支出になった。

――特殊法人経由の子ども手当関連の支出というのは、何のことですか。

高橋:自公政権時代は大体、特殊法人独立行政法人経由ですが、そうした法人の事業目的には児童・子供関連のものが多い。そこからも全部削らなきゃだめなんです。子ども手 当の額が大きいのでそれでも足りないから、大人関連のものも少し削る必要がある。子ども向けという、最終的に及ぼす効果が同じなら、お金を国民に直接与えるのか間接的に与えるのかの違いだけだから、直接与える時は、所管する省庁も関係なく、間接的に与えるものは全部削らなければ。それをしないから、ぽーんと10兆円以上膨らんだ。それで困って、消費税増税を目指しているわけです。

――増税する前に公務員・議員をリストラするべきではないか、という意見については、高橋さんは公務員改革が持論ですから賛成でしょうか?

高橋:公務員改革は、増税しようがしまいがする必要がありますよ。増税論議の中で議論されるなんてバカバカしい。歳出カットの文脈とは全く違う。私が以前から言っているの は、公務員の年金・住宅・給与・天下り。この4点セットを改革すればいい。
 給与では、人事院は大企業、それもトップクラスを比較対象にしています。一方、国税庁も、民間企業で同じような法人調査をしていますが、両者のデータは年収ベースで100万円以上も開きがある。これはおかしい。大企業に合わせるのではなく、統計上の中位数(一番多い層)に合わせるべきだと思う。  また共済年金も、厚生年金と統合するべきしょう。多くの大企業は厚生年金基金については財務負担が重いから既に代行返上していて、確定給付型年金をやめています。代わりに確定拠出型年金の401kを導入した所も多い。それなら公務員だって401kにすればいい。その上で、官民格差の源である、国や地方が 払っている追加費用をカットできれば、1兆5000億円ほど財政再建に回せる。
 さらに公務員宿舎も、国会で追及されると大企業にも社宅があるからと答弁するが、調べてみると大企業は賃貸しているケースが大半です。ならば公務員宿舎を売り、借り上げれば済む。再就職に関しては、天下りは絶対禁止するべき、ということです。

――連載の議論の中で徴税漏れの話が出てきました、今も徴収漏れが多いわけですが、歳入庁を作れば少しは漏れが減るということですか。

高橋:そうですよ。でも消費税の話はどこも出てこないけれどね。所得税を取る時に年金も合算して取って所得再分配しましょうというのは、大本は負の所得税の考え方です。でも負の所得税は現実には色々な困難があるから、日本ではまだだけれど、世界では給付付き税額控除という形になった。その前提インフラとして、歳入庁があるのです。日本で言えば国税庁と年金機構の徴収部門を併せる形です。税と保険料を一体で取るなど、2つの役所の仕事を1つの役所で担うので、徴収の実務効率化にもつながる。理論的にはすっきりしています。

■歳入庁を作って徴収漏れをなくすのは世界の流れ
 歳入庁を作って、税と保険料を一緒に徴収することで漏れをなくせますし、所得を把握出来ますので給付付き税額控除を実施出来ます。払う方も保険料と法人税を一度に払えて非常に楽になる。こうしている国は実際多いですし、世界の流れです。
 日本ではこの仕組みを導入していないため、大きな徴収漏れがあるのです。データだけ言いますが、年金機構と国税庁の捕捉している法人数に差があり過ぎます。80万件から100万件近く差がある。大き過ぎてこれはちょっとおかしい。年金機構が把握している法人数が少な過ぎて、最大で年間12兆円分が漏れていることになります。12兆円は大き過ぎると皆が言うのですが、じゃあ一度、一緒に徴収してみればといつも言っています。会社が天引きしているから従業員は払ったと思っているのに、実際は払えていないケースが多い。消えた年金の8割方が厚生年金である理由はこれです。そうしたケースは、歳入庁があれば漏れない。件数は少ないけれど健康保険も同じ状況です。
 歳入庁にして、年金機構の社会保険番号を国税庁が使えれば一石二鳥で、恐らく課税の捕捉率の業種間格差「クロヨン」もなくなる。自営業などから徴収漏れしている税金は5兆円程度あるでしょうか。税務署長の経験によるドタ勘ですが。先ほどの年金徴収漏れの12兆円とクロヨンの是正分を足すと、17兆円ぐらいになります。さらに消費税の税額を記載した納品書を課税事業者に義務付けるインボイス方式を採用すると3兆円ぐらいあるから、合計で最大20兆円ぐらいになる。半分だとしても10兆円だから、消費税率を上げなくても済みます。半分でも10兆円だから結構いい話だと思います。

――番号制度を導入してもクロヨンはなくならないという話も聞きますが。

高橋:なくならないけれど、番号があると変な申告があった時に銀行口座を全部調べられる。番号がないと銀行口座の照会がしにくいですが、番号があれば照会が簡単ですから。 もちろん銀行口座開設の時には番号を書くことが前提です。これは預金保険を使う時の名寄せにも役立つ。
 それに歳入庁を作れば消費税増税はいらないのに、歳入庁による効果を政府は数字で言っていないですね。最大20兆円の効果、半分だって10兆円です。少なくとも今度の消費増税はしなくても何とかなりそうじゃないですか?。クロヨンの数字が分からないのなら、歳入庁にしてから増税した方がいい。今は不公平なのに、消費税増税でその不公平をさらに増長する感じです。国税という枠の中で考えたとしても歳入庁で番号制度を導入してから考えた方がいい。

――スウェーデンも歳入庁がありますね。スウェーデンでは、個人は社会保険料を払っていないですね。社会保険料や年金は法人税が財源でしたね。

財務省増税の狙いは天下り確保につながる利権
高橋:企業が給料の代わりに保険料を払うか、給料をもらい個人が払うかの違いだけです。所得税と一緒に合算すれば所得再分配にもなるし所得把握もできる。そもそも年金機構のような徴収部門は単独ではなく、国税と一緒の方が理論的にはいいのです。

――高橋さんの考えでは、財務省増税をしたいという動機は何なのですか。

高橋:増税は税率 を上げることだけれど、税収増にならないのは歴史を見れば明らか。それでは何が動機かといえば利権ですよ。増税すれば、財務省の権限が増えますから。増税すると軽減税率の陳情が来る。官僚は個別に例外措置に対応するので、そこで利権が生まれるわけです。それが天下り先確保にもつながりますからね。それこそ が財務省の狙いなのですよ。≫(日経BP:今さら聞けない消費増税より)

*高橋 洋一(たかはし・よういち) 1955年、東京都に生まれる。東京大学理学部数学科・経済学部経済学科卒業。博士(政策研究)。1980年、大蔵省入省。理財局資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、総務大臣補佐官などを歴任したあと、2006年から内閣参事官(官邸・総理補佐官補)。2008年退官。金融庁顧問などを経て、現 在、嘉悦大学教授、(株)政策工房会長。 主要著書:財投改革の経済学(東洋経済新報社)、さらば財務省講談社)、財務省が隠す650兆円の国民資産(講談社)など

郷原弁護士の「指定弁護士の論告求刑」に対する意見。

陸山会事件小沢公判での指定弁護士の論告について
名城大学教授・弁護士 郷原 信郎


 3月9日、東京地裁で行われた小沢一郎氏に対する政治資金規正法違反事件の公判で、指定弁護士が論告を行い、被告人の小沢氏に対して禁固3年を求刑した。この論告に対する所感を述べることとしたい。
東京地検特捜部による検察審査会を欺くための虚偽捜査報告書問題等の策略の発覚、検察官調書証拠請求却下などによって、起訴そのものが有効であったか否かにすら疑念が生じるという絶望的な状況においても、指定弁護士は最後までベストを尽くした。まずは、そのプロ根性に敬意を表したい。
 指定弁護士は、検察審査会の起訴議決に基づき公訴提起の手続を行い、その公訴を維持する方向での活動を行う立場にある、いかなる戦況においてもギブアップすることは許されない、絶望的な状況においても、立ち上がって敵に向かっていくしかない。
 今回の陸山会事件小沢公判での論告は、そういう「後に引けない立場」にある指定弁護士として、可能な限りの主張・立証を試みたものであり、与えられた立場で最大限の努力を行ったものと評価できると思う。
 しかし、そういう「退却できない立場」の指定弁護士による最大限の努力の成果として行われた今回の論告が、政治資金規正法違反の刑事事件における主張・立証として、通常行われる範囲を超え、従来からの刑事司法の常識を逸脱するものになってしまったことは否定できない。
 論告は、
?公訴棄却の主張に対する反論など、本件裁判の形式要件についての記述。
?石川・池田・大久保の3名の元秘書について政治資金規正法違反が成立することに関する立証。
?小沢氏の共謀に関する立証
の3つの部分に分かれる。
 ?、?については、小沢氏の弁護人、或いは、石川氏らの控訴審の弁護人から、詳細な証拠関係に基づく反論が行われるであろう。
 ここでは、小沢氏の公判の最大のポイントであるとともに、検察の捜査・処分の考え方とは大きく乖離する考え方がとられた小沢氏の共謀に関する論告の記述に絞って述べておこう。
 この点に関して、指定弁護士の論告では、小沢氏からの4億円の現金による資金提供を収支報告書に記載せず、虚偽の記載を行った石川氏らの動機・目的が、小沢氏から多額の資金提供が行われた事実を秘匿することにあったこと、そのような行為を行う動機は、石川氏ら個人にはなく、多額の資金の提供を表に出したくないとの小沢氏の意向に基づいていると考えられることなどを根拠に、石川氏らの虚偽記載に関して、小沢氏との具体的な謀議、報告、了承、指示等の事実が全く特定できなくても、小沢氏の共謀が認定できるとしている。このような小沢氏の共謀の主張・立証には、二つの面から重大な問題がある。
 まず、第一に、政治資金規正法の一般的な法解釈を逸脱していることである。政治資金規正法は、政治資金収支報告書の作成義務とその記載の正確性を担保する責任を基本的に会計責任者(又は、その職務補佐者)に負わせている。政治団体の代表者に対しては、同法25条2項で、政治資金収支報告書の虚偽記載が行われた場合に、会計責任者の「選任及び監督」について相当な注意を怠った場合に罰金刑に処することとしており、それは、法が、虚偽記載についての責任を基本的には会計責任者に負わせた上、代表者については、会計責任者の「選任」と「監督」の両方に過失があったという例外的な場合に処罰の対象とする趣旨だと解される。
 そのような法の趣旨からすると、政治資金収支報告書の虚偽記載政治団体の代表者が、収支報告書の記載に虚偽があることについて認識していたという程度で処罰されるというのは、法の趣旨に著しく反するものである(このような政治資金規正法の現状のままにしておいてよいのかという立法の問題は別として)。
 第二に、この共謀の主張・立証の根拠とされている「共謀理論」は、かつて「暴力革命」を標榜する過激派によるテロ、ゲリラ事件や拳銃による殺傷事件を繰り返す暴力団等による組織的犯罪の摘発・処罰に用いられたことにある。それは、論告中に、平成15年の暴力団組長の銃刀法違反事件の最高裁判決を引用していることにも表れている。この判決では、自らの警護に当たる組員に拳銃を持たないように指示命令することができる組長が、組員らが拳銃を所持していることを概括的にではあれ確定的に認識していたことで、「黙示的に意思の連絡があったと言える」として、拳銃の所持について組長の「共謀」を認めている。
 指定弁護士の論告では、この最高裁判例の考え方を、政治資金収支報告書の虚偽記載である本件事案に適用して、小沢氏が石川氏らを指揮命令し、犯行を止めることができる立場であったこと、小沢氏には、4億円の資金提供の事実を隠蔽するために政治資金収支報告書に虚偽の記載を行うことについて確定的認識があった、ということを根拠に、小沢氏に共謀が認められるとしているのである。この主張・立証は、刑事司法の常識を逸脱したものと言わざるを得ない。
 過激派のテロ・ゲリラ事件や、暴力団による拳銃による抗争事件などでは、当該組織の存在と活動自体が犯罪性を帯びていて、国家や社会にとって容認できないものであり、しかも、そのことを、当該組織の側も敢えて否定はしていない。過激派の場合は「犯行声明」を出したりして公然と認めており、暴力団は、まさに反社会的団体そのものである。
 これらの事案では当該組織によって犯行が行われたことは明らかであっても、実行行為者や首謀者を特定する証拠がないために、通常の刑事事件で「共謀」の立証に不可欠となる「具体的謀議」の事実を特定することができない。
 このような場合の共謀の立証の方法として、具体的謀議自体を全く特定せず、(ア)組織としての方針や意思、(イ)組織内における被告人の地位・立場、(ウ)被告人が、何らかの形で、犯罪の実行を認識していたことについての客観的証拠、の3 つを立証することで、共謀を立証するという方法がとられてきた。
 ここでの立証の考え方は、「謀議」という具体的事実自体を立証する、或いは推認するという一般的な共謀の立証とは異なり、上記(ア)〜(ウ)の事実を立証することによって、直接「共謀の成立」という法的評価をすることが可能だという考え方に基づく。
 このような「共謀理論」は、一般の刑事事件の事実認定とは質的に異なる。それは、共謀の認定を、本来の構成要件事実である「謀議」という具体的事実ではなく、組織の活動における地位・役割と犯行に関する認識という要素に基づく「規範的評価」によって行おうとするところに特徴がある。
 すなわち、本来、刑事事件で立証する事実は、「誰が、いつ、どこで、何をしたか」という個別具体的な事実である。それが明らかにされることで、その事実に関して、当該被告人が、どのような意思でどのように犯行に関与したかが明らかになり、共謀による刑事責任の有無・程度が立証されるのである。ところが、前記のような特殊な組織的犯罪においては、その組織的活動に関わる、何らかの「状態」が立証するという方法をとるのである。論告が引用する最高裁判例の事案でも、暴力団組織が、組長護衛のために部下が拳銃を所持している「状態」について組長が認識していることで組長の共謀が立証できるとされたのは、その典型的な例である。
 しかし、このような「状態」とその認識を立証することによって共謀を行う余地があるのは、当該組織の活動自体が恒常的に犯罪に向けられていると考えられるからである、「暴力革命」を活動目標として掲げ、テロ、ゲリラの実行を組織として認めている過激派がまさにその典型であり、他の暴力団との拳銃による抗争事件を繰り返している暴力団組織も、その活動自体が犯罪に向けられていると言える。そのように、犯罪に対する恒常的な認識が組織内で共有されていることを前提に、被告人の地位と、特定の犯罪事実に関する被告人の認識を立証することで共謀が立証可能と考える余地があるのは、犯罪を行うことにより、或いは、犯罪を行ってでも、目的を達成しようという方針が組織内で共有されていることが前提なのである。
 このような特殊な「共謀理論」を適用する余地があることの背景には、そのような自ら社会秩序に反する活動を標榜している組織は社会から排除されるべきであることについての「社会的合意」の存在がある。
 そのような共謀理論を陸山会事件における小沢氏の共謀に適用すべきというのは、過激派、暴力団組織等の共謀の前提となる「組織の存在及び活動自体の反社会性」を、特定の政治家、政治団体の政治資金の処理をめぐる事件に適用することを求めているということにほかならない。
 しかし、政治資金の処理、収支報告書の記載に虚偽があったと言っても、それは、政治資金に関する手続きの問題に過ぎない。政治資金の処理に関するルールは、国民、有権者の政治家、政党の選択のための情報開示の問題であり、テロ、ゲリラ事件、暴力団の抗争事件のような国家や社会を根底から揺るがしたり、実際の人の死傷の危険を生じさせたりするものではない。
 また、このような政治資金に関するルールは、本来、あらゆる政治家、政党に、法の規定に従って、公平に適用すべきものであり、政治的な影響を意図した恣意的な運用は許されない。
 小沢氏の政治資金規正法違反事件について検察が不起訴の判断を行った際には、このような特殊な共謀理論の適用など凡そ考えられなかったはずだ。それは、政治に関連する事件の共謀についての認定の問題と、反社会的勢力の事犯における共謀の認定とは決定的に違うことがについての、検察としての健全な常識によるものである。
 また、もしそのような共謀理論の適用を前提にできるのであれば、尐なくとも、東京地検特捜部の検察官も、裁判所の多くの検察官調書の請求が却下されるような違法・不当な取調べを行う必要は全くなかったはずだ。
 そういう意味では、指定弁護士の論告は、一見、緻密な論理と間接証拠の積み上げによる説得力のある主張・立証のように見えるが、その内実は、刑事司法の常識を大きく逸脱するものであり、政治資金規正法事件についてこのような論告を敢えて行うことには、常識ある法律家として相当な抵抗があったものと推察される。
 しかし、冒頭にも述べたように、指定弁護士は「退却」は許されないという考え方から、敢えて、このような論告による主張・立証に踏み切ったのであろう。
 検察審査会法の改正によって導入された起訴強制制度には、指定弁護士が今回のように相当程度常識を逸脱した主張を行わざるを得なくなること、一部の検察官が検察審査会の審査員を騙して起訴議決を行わせようとする謀略が行われる危険性が排除できないことなど、重大な欠陥があることが今回の事件で明らかになったと言うべきであろう。
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関連:
◆「政治資金規正法を皆さん勘違い。小沢さんがいなくなることはプロの政治家がいなくなること」安田弁護士2011-07-21 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
  7/19緊急シンポジウム!! ''ニッポン''は何を守ろうとしているのか!H.22-06-08 
 「唯一はっきりしている条文があるんです。政治資金規正法で処罰されるのは、会計責任者だけなんです。政治家は処罰されないんです。政治家は処罰の対象から外れているんです。始めから、そういう法律なんです。そもそも法律の目的というのは、会計責任者が責任を持って会計の結果について報告する、ということが義務付けられているんです。ところが皆さん、勘違いしている。小沢さんが秘書と一蓮托生で処罰されるべきだと。これほど法律違反、法律の主旨に反することは、ないんです。つまり、どこかで法律が歪められて、トリッキー歪められて、つまり、政治資金規正法は政治家取締法なんだというふうに完全に勘違いしている。この勘違い、実は検察審査会も、まったく同じ評決をしているわけですね。小沢さんは、これだけ権力を持っている人間が、小沢さんの指示なしに物事が行われるはずがない、と。しかし法律の枠組みは、およそそんなことは無いんです。もし小沢さんが有罪になるとすればですね、責任者との共犯なんです、あくまでも。単に、知っていたとか、報告受けていたとか、そんなことでは共犯になるはずありませんね。これは、税理士さんが「これで申告しますよ」と言って「ああ、はい、どうぞ」って言ったら共犯になるか、といえば、そんなことはないわけなんです。ですからもし小沢さんが共犯になるとすれば「おい、石川、こうやれ」という形ですね。「こうやらんと許さんぞ」と、指示・命令、絶対的に服従させたと、そういう場合に初めて共犯として存在する。それを皆さん、完全に誤解している。大変な誤解(笑)。それで、皆さん、恐らくテレビなどで論評していらっしゃる。
 次の問題です。政治資金規正法の中に、何を記載せよとか、どのような会計原則に則れとか、何一つ書いてないんです。ですからたとえば、ちょっとお金を借りましたとか、立て替えて貰いましたとか、或いは、今日帳簿に載せるよりは来年のほうに載せとこうか、というような話は、本当に虚偽記載になるのかどうか、或いはそれを載せなければならないのかどうか、それさえもあの法律の中には書いてないんですよ。つまり、虚偽を記載してはいかん、という話だけなんですよ。何が虚偽なのか、さえ書いていない。しかしそれを検察が勝手に解釈してですね、例えば今回の場合の、今年載せずに来年載せたということが犯罪だと、虚偽だと、やったわけです。或いはAという政治団体からお金貰った、それを実はこうだった、違う人だった、と言って、それは虚偽だというわけですね。しかしAという政治団体を通して貰ったんだから、それを記載するのは当たり前の話でして、それを虚偽といえるかどうか、それこそ大変大きな問題なわけです。ですから小沢さんの一昨年の問題、或いは今年の問題、いずれも法律の解釈を彼らがやって初めて有罪に出来るだけの話でして。ですから立法者の条文とは違うんですね。
 ですからこの間(かん)も法律が守られずにどんどんどんどんきている。今回典型的なことはですね、石川さんが逮捕されました。しかしその2日後、3日後ですかね、3日後には国会が開かれるわけです。国会が開かれた場合、国会議員を逮捕するためには国会の議員の議決の承諾がないといけないわけなんです。それを抜き打ち的に、先達する形で石川さんを逮捕する。これは立法権に対する侵害じゃないですか。つまり憲法違反の事を彼ら、やっているわけです。つまり憲法に違反している行為に対する批判がどこにもない。これは、私ももう、大変びっくりしたわけです。
 検察はしっかりと政治をやっている、というふうに私は理解しているんです。例えば今回、石川さんの弁護をやっていて3日目か4日目ですかね、あ、検察はこれを狙っているな、というのは大体、私も、石川さんが検察にどういうことを言われているかというのを聞いて分かるんです。
 つまり検察は小沢さんを逮捕することは恐らく不可能だろうと最初から思った。しかし検察審査会で勝負をかける、ということを彼らは考えている。彼らのやり方はこうだな、と。検察審査会で起訴相当を取ることによって小沢さんの政治生命を奪う、と。そのシナリオ通りに見事に小沢さんの政治生命はなくなってしまった。ま、これが今回のシナリオでですね。小沢さんを直接起訴すれば当然全面戦争になってしまうわけでして。むしろ国民を総動員して、或いは市民という名を、怒れる11人の市民を使って小沢さんの政治生命を奪うという戦術に彼ら、でてきた。
 で検察審査会も、トリック、ま、検察審査会には助言者といってですね、弁護士がその場に同席していろんな助言をするわけです。法律の解釈とかそういうものを。恐らくその助言者がとんでもない助言をしたんだろうと思うんです。どういうことかというと、政治資金規正法は政治家の犯罪、取締法なんだという解説をしたんだと思うんです。
 ですからとんでもない、検察でさえ起訴しなかったものを検察審査会が起訴相当という結論をだしたんだろうと、そしてそのことを検察は最初から予想、予定していたんだろうと、そう思うわけです。
 先に、情緒的な風潮の中で有罪無罪が決まっていくと、そういう話がありましたけど、私は思うんですね。弁護士は弁護士として、政治家は政治家として、メディアの人間はメディアの人間として、それぞれの人間がプロ的な精神を持ってそれぞれの職責を全面的に発揮すれば、おそらくこんな体たらくな状態にはならんだろうと思うんです。法廷でも、捜査段階から弁護士が弁護人として責任をしっかりと果たせば、恐らく情緒的な社会の動きに対してたえることが出来る、或いは十分に弁護して勝つことが出来るだろうと思うんですね。
 プロ性がどんどん抜けていく、今回の政権交代でも、ま、アマチュアの集団というか、益々プロがなくなる。小沢さんがいなくなることは、プロがいなくなる、そういうことだろうな、と。崩壊の社会が来たな、と。プロが居なくなるということは、結局情緒的なものに流されるし、或いは、世間の風潮に流される、とこういう時代に益々突入したな、と思っているんです。
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最高裁の「検閲」

ソース(日刊ゲンダイ2012/2/24)掲載記事

最高裁 今度は憲法違反の「検閲」疑惑
(日刊ゲンダイ2012/2/24)

"誤報防止目的"で事前チェック

小沢裁判では、司法権力のデタラメが次々と明らかになっている。もはや検察が正義の味方とは誰も思っちゃいないだろうが、裁判所も叩けばいくらでも疑惑が出てくる。なかでも見過ごせないのが、憲法違反の「検閲疑惑」だ。

問題となっているのは、最高裁判所の「調達・公募情報」。これをめくると、最高裁事務総局は08年4月1日付で時事通信社共同通信社随意契約を交わしていることがわかる。
時事通信社との契約額は844万2000円。随意契約の理由として、「全国の裁判所の判決についての関連取材、人事異動等の発表報道に備えて情報収集、事前情報の誤りの指摘、誤報の防止等を目的に利用する」と書かれている。これって事前検閲にならないか。
通信社が誤報し、それを新聞社が載せたとしても、それは報じる側の問題であって、誤報防止のための事前チェックなんて聞いたことがない。
共同通信社との契約内容は、さらにロコツだ。「各新聞社の新聞記事となる直前の情報が配信され、不適切な箇所があれば、指摘及び変更が依頼できる」と明記されているのだ。ちなみに共同通信とは1152万9000円で契約している。

元外交官で評論家の天木直人氏は、驚きを隠さずこう言う。
「新聞社、特に地方紙は通信社の配信記事を元に作られることが多い。裁判所が事前に新聞記事を検閲しているとすれば、大問題です。当局に都合の悪い情報を事前にモミ消すことができるし、情報操作を行うこともできる。一種の情報統制です。税金を使って、メディアを統制している。こんなことが許されていいはずがありません」

日本国憲法は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」(第21条2項)と定めている。
裁判所が憲法違反ではシャレにならないが、最高裁の見解によれば、検閲とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるもの」(最高裁判所86年6月11日大法廷判決)を指すとされている。

橋下徹論・・・「大衆への反逆」論。(オルテガ・イ・ガセット)

オルテガ「大衆の反逆」・西部邁・国家とは?
考え事 | 16:52

我善坊さん、さわやかNさん有難うございます。

今回もしつこく、オルテガ西部邁について補足します。

1. 西部氏を知る人は若い世代には少ないでしょう。

60年安保のときの全学連副委員長、もと東大助教

(社会経済学)、いわゆる東大駒場事件で辞職、以後保守主義

標榜する評論家。



2. 同氏は戦後の日本でオルテガを高く評価した最初の1人ではないか。

少なくとも私は、1981年のエッセイ「“高度大衆社会”批判

オルテガとの対話」(『大衆への反逆』所収)で知り、読み始めた。

例えば西部は以下のように紹介する。

・・・オルテガ的な精神は大衆によって扼殺(やくさつ)された。半ば無自覚

にではあったがオルテガ殺しの儀式があったにちがいなく、それ以後、大衆を

批判するのがタブーとなった(同書75頁)

・・・少し皮肉なことに、オルテガは知識人のための知識というものを

軽蔑し、大衆の真ん中にいようと努力した人である・・・“一緒に独りで”

いることの緊張に堪えぬく精神、それがオルテガのいう貴族・・・たることの

条件である・・



3.西部氏については最近は全くフォローしていませんが、

1980年代半ばの著作(例えば『幻像の保守へ』所収の「相対主義の陥穽」

進歩主義の末路」「福田恒存論、保守の神髄をもとめて」など)が

いちばん活躍した時期でしょう。

・・・たとえば、保守主義を特徴づける中庸もしくは節度の態度に

ついていえば・・・・「節度の逆説」というものが発生する。・・・

つまり節度を守り抜くには常軌を逸した熱意がならなければならない。

熱狂は保守主義のいみきらう態度であるが、熱狂を回避することにおいて

保守主義は熱狂的でなければならないのである・・・(同書39頁)



4.オルテガについても補足しておく必要があります。

『大衆の反逆』では“大衆社会批判”ばかりがよく知られていますが、

実は同書は、第1部:大衆の反逆と

第2部:世界を支配しているのは誰か

の2部構成になっている。

そして第2部は、真正のヨーロッパ主義者であるオルテガがヨーロッパこそ

彼の用語による「貴族」として復権する必要がありそのための未来は

ヨーロッパの統合にあるという主張が中心となる。

即ち、前回のAとBの区分けに沿えば、ヨーロッパこそBであり

その他の世界はAである。

再び、ヨーロッパが世界を指導していかねばならない、それは19世紀の

自由主義を守ることから始まる、ファシズムとボルシェビズム

マルクス・レーニン主義)は徹底的に否定されねばならない。

(ここで、彼は、社会や個人についてのA対Bという認識と図式を

第2部で国家にあてはめることになる)



5.まあ、こういう言説ですが、ここで重要なのが、

彼の「国民国家」観です。そこから「統合」の意義と可能性

が説かれる訳ですが、以下に(かなり多いですが)引用しましょう。

・・・国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる1つの

社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものだ

(P.220)・・・



・・・本源的に国家は、多種の血と多種の言語の統合にある。つまり国家は

あらゆる自然的な社会の超克であり、混血的で多言語的なものである・・・



・・・国家とは何よりもまず1つの行為の計画であり、協同作業の

プログラムなのである。人々が呼び集められるのは、一緒に何かを

なさんがためである。国家とは、血縁関係でもなければ、言語的統一体でも

領土的統一体でもなく、住居の隣接関係でもない。

それはダイナミズムそのもの――共同で何かをなそうとする意志――

であり、ゆえに国家という観念は、いかなる物理的条件の制約ももっていない

のである(P.233)

・・・国民国家(ナショナル・ステート)を形成したのは愛国心ではない

のである・・・(大事なのは)共通の未来である。その本質は、第1に

共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に

対する人々の支持でである(P.231)

・・・国民国家はけっして完結することはない。国民国家はつねに形成の

途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、

第3の可能性は与えられていない・・・



・・・世界は今日、重大な道徳的頽廃(たいはい)

におちいっている。そしてこの頽廃はもろもろの兆候の中でも特に

どはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており、その起源は

ヨーロッパの道徳的頽廃にある。



・・・最後の炎はもっとも長く、最後のためいきはもっとも深いものだ。

消滅寸前にあって国境――軍事的国境と経済的国境――は極端に

敏感になっている。しかし、これらナショナリズムはすべて袋小路なの

だ・・・その道はどこにも通じていない(P.262)





・・・ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家(ネーション)を

建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。

そのとき、ヨーロッパはふたたび自信をとり戻し、真正な態度で自己に

大いなる要求を課し、自己に規律を課すにいたるであろう。



6.以上、まことに長々と引用しましたが、その理由は、以下にあります。

(1) どうも、オルテガ『大衆の反逆』の前半ばかりが喧伝されて

後半への言及が少ないのではないかとかねて考えている

(私の勉強不足で知らないだけかもしれないが、西部でさえ

まったく触れていない)



(2) ご紹介した、オルテガの国家観が、肯定するか否定するかは別にして

きわめて重要な意味をもっている

という2点です。

さらにそれは、

・日本の戦後の国家観はおそらく以上と対極にあるのではないか

(少なくとも、日本の国籍法の思想とは根本的に違う)

・戦後徹底的に否定された「大東亜共栄圏」という思想

をふたたび考察することに意味があるか無意味なのか

・中国の覇権主義ナショナリズムとが

警戒されているが、実はナショナリズムというより

(少なくとも一部の)リーダーはオルテガ的国家観を信奉しているのでは

ないか?

・これからの日本は、中国に対抗するためにも東アジアや太平洋の

諸国との協調をいっそう進めていかねばならないと言われるが、

それはこのような国家観とどう関係するのか、しないのか?

たいへん長くなりましたが、こんな妄想を追いかけております。


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我善坊 2011/02/22 11:31
これ以上コメントを書き込むのは話題を横取りし、まるで「ブログ・ジャック」しているようで気が咎めますがー。
1)慥かにひと頃西部がオルテガを話題にしていましたね。(「キツーイ皮肉」ではなかったようで、失礼しました)
我々より上の世代からオルテガの名前を聞くことがなかったとすれば、戦後の雰囲気の中で彼を正面から採り上げるのに躊躇いがあったのではないか?恰も彼らは旧制高校の教養から育ってきたのにも関わらず、旧制高校の復活を云うのに恥じらいを見せていたように。偶々『丸山眞男集」(全集、計17巻)を調べたら、オルテガの名前が出てくるのは僅か二箇所にすぎませんでした。
しかし彼らがオルテガを読んでいなかったかというと、そんなことはない。戦後の民主主義についてのあの世代の発言には、オルテガの影響がはっきりと見て取れるように思います。
2)私は、あらゆる思想家はその時代状況の中で読むべきではないかと考えています。
オルテガの議論のほとんどは(幸か不幸か)現代にもそのまま警告として生きていますが、なかには現代では文字通りには受け取れないものもあります。『大衆の反逆』の後半部があまり引用されていないとしたら、彼の欧州中心主義や国民国家論にあるのかもしれません。(川本さんの引用された箇所―5の後段―は、今日のEUを予言しているようで興味深いところですね。ただし彼が此処で言う「ネーション」は「欧州人」や「中国民族」などのように、従来のネーションを止揚する概念で、今日ではこれは警戒の対象になっています。チベットフランコ時代のバスクに見るように、本来のネーション(民族)の文化的統合を脅かしかねない、という警戒です)
『大衆の反逆』が書かれた1930年は、第一次大戦後で国民国家の価値が最高度に高められた時代。しかもスペインは、外見こそ15世紀末以来統一国家を成していましたが、各地方の割拠性が強く、英仏独のような国民国家とは少し違った様相を見せていた(これは今に至るもスペインの特色の一つです)。オルテガはその中で、ことに英国をモデルとした国民国家(当然その背後の国民市場)の形成を目指して論陣を張っていました。
その国民国家論(ナショナリズム)が、第二次大戦の災禍を知った後では戦間期のように手放しでは礼賛されなくなり、ことに、既に20世紀半ばまでに国民国家を形成しえた先進国では、ナショナリズムは自制の対象とされるに至っています。従って、本書の後半部分は文字通りに読むのではなく、時代状況を超えたオルテガの普遍性は何か、という読み方が必要になると考えます。
3)「大東亜共栄圏」という(「思想」ではなく)「理想」は、十分に再検討に値すると思います。もちろん一方で、それが実は「遅れてきた植民地主義」の理論武装にすぎなかったという歴史も、冷静に見ておく必要があります。しかし明治国家の指導者たちがどういうつもりで言ったとしても、それをまともに信じて戦場に赴き、死んでいった人々がたくさんいたことも事実です。(日本の敗戦後、中国やインドネシアに残って毛沢東スカルノを助けて独立運動に従事した元兵士も少なくなかった)
彼らの死を犬死にさせないためにも、「大東亜共栄圏」の理想に照らして満州事変以来の歴史を冷静に見、理想を理想として再現してみる必要があるのではないか?
EUや中国、あるいはアメリカやロシア(いずれもNation Stateではなく、「帝国」=超民族国家)などとの比較という観点も、必要と思います。

さわやkN 2011/02/22 14:32
私がヤバイと思っているのは「政治家の大衆化」ですね。複雑化している現代社会では、大量の情報に基づいて、高度な判断と合意形成をスピーディーにしなければいけないのに、最近やっていることは、多数決という民主主義の武器を暴力的に議会で振り回して自分の議席を守ろうとするだけのチャンバラ劇に見えます。危険な状態ですね。制度的な宿命をどう克服するか・・・。それよりヤバイのは「・・・国民国家(ナショナル・ステート)を形成したのは愛国心ではないのである・・・(大事なのは)共通の未来である。その本質は、第1に共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に対する人々の支持である」今、この国で異なった世代は共通の未来を見ているのでしょうか?この定義において日本はすでに国家として分裂してしまっていると危惧します。それとは対照的に、国民国家を超える、資本主義市場という新しい帝国の描く夢を世界の多くの人は共通の夢として夢見ている。圧政のもとに実現できなかった自由と富へのアクセスの舞台へ躍り出ようとしている。このギャップはでかいですね。

さわやかN 2011/02/24 12:23
前回は、世代という時間的な断絶に関し、少し言及しましたんで、今度は空間的に。バスク語カタルーニャ語をいまだに国内に抱え、内戦の歴史を持つスペインと我が国を比較してみるに、今に見る日本の地方の疲弊は労働力を都会(中央)に奪われた以前に、言葉と誇りを中央に奪われたからであるのかなと、ふと思いました。奪った尖兵はマスコミですね。アイデンティティの1つの源泉であり、生活言語である方言を奪われ、抽象言語(支配言語)としての共通語で会話をせざるを得なくなった語族の集合体としての「国民国家日本」であったのかも。こう考えると韓国や南洋諸島の言語を啓蒙の名のもとに奪っても無頓着なのも理解できますし、代議士が、日本という国の公共的な性格では無く「オラが国さの代表」として中央への抵抗と媚の2面性を持つ性格が強いのも腑に落ちます。西洋(の知識人)が数千年来悩んでいた身体性と精神の分離の葛藤を、ここ百年あまりで生活言語を捨て支配言語へという経験を出発点(※)に、全国民が経験し、葛藤しつつあるのが現在の日本とベルリンの壁崩壊後の旧共産圏(いずれも非ヨーロッパ)であると妄想しました。「逝きし世」第2巻は進行中かもしれません。※これに加え農民(家業)から賃金労働者へ、父系長子相続から核家族へ・・・。エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ・・・。


(読者の声3)(追伸)橋下・大阪維新船中八策」の骨格にツッコミを入れる。
 橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会が次期衆院選の公約として策定する「船中八策(維新八策)」骨格の全文が、漸く報じられた。
(「橋下維新 これが『維新八策』だ! 骨子全文」 産経新聞 2月21日(火)16時8分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120221-00000546-san-soci
維新の地方議員や3月に設立する維新政治塾での議論も踏まえ、最終決定する模様だ。
 読んでみると、「骨格」だけあって、項目だけが踊っていて何やら情報整理術のKJ法の作業中といった感じだが、一言で総括すれば 「ナショナル・ミニマムを伴う自立社会の建設」という理念が感じ取れ、筆者は全体の方向性としては賛成の立場である。
大阪維新の会は、13日の全体会議での発表に合わせ、ペーパーを非公式扱いで流したため、当日報じられた内容は各紙ともバラつきがあった上に、「骨格」のそのまた要約というものだった。
今回、明らかになった「小骨」の部分について、その時に書いた拙文(「橋下・大阪維新船中八策』の骨格に現時点でツッコミを入れる。」
http://www.pjnews.net/news/819/20120215_2
等)を補足する形で、各論についての不明点、懸念点及び異論等が在る項目のみにつき、以下にそれを記す。

◆リバースモーケージ(所有不動産を担保に年金のような融資を受ける仕組み)の制度化
 通常この仕組みは、契約期限が来ると全額融資を返済しなくてはならないものだが、無期限とか年齢150才期限等を想定しているのか?

◆新エネルギー、環境、医療、介護などの特定分野に補助金を入れて伸ばそうとするこれまでの成長戦略と一線を画する「既得権と闘う」成長戦略〜成長を阻害する要因を徹底して取り除く

 ここでイメージされている成長戦略の実行手段は、規制緩和地方分権であろう。
主軸に据えるのはそれでよいが、弊害は多い補助金、税制措置についてもサンセット方式で透明・時限的なものであれば選択肢として排除すべきではない。

また、有望だが民間だけでは参入に躊躇するものは、「新重商主義」の観点から民間と折半した国の直接投資(リスクもビジネスライクに完全に折半する)により国家プロジェクトとして進めるべきである。

労働市場の流動化、自由化→衰退産業から成長産業へ、外国人人材の活用
 外国人人材の活用は、日本人の雇用と重なる分野に於いては、一方で競争を促進し付加価値を高めるというメリットがあるが、一方では日本人の雇用を食って失業者を増やすデメリットもあるので、精緻に設計する必要がある。概ね、ハイレベル分野に外国人を入れるならばメリットの方が大きいであろうが、ミドルレベル分野に入れるとデメリットの方が大きいであろう。
 また、日本人がやりたがらない、いわゆる3K分野に入れると「ゲットー」の出現等の別の問題が生まれる。

◆一生涯使い切り型人生モデル
これを文字通り徹底すれば、相続は一切出来なくなり共産主義に近付くが、労働意欲減退、海外資産逃避を防ぐため、少なくとも一定財産の留保は必要だろう。

脱原発依存、新しいエネルギー供給革命
「新しいエネルギー供給革命、脱原発依存」の順に、在るべき時系列に合わせ順番を入れ替えて表現すべきだろう。
代替エネルギーの現実的な目処が、脱原発の前提条件として必須である。
 なお、原発政策については、福島原発事故の解明、責任者の追及・処罰、再発防止へ向けての体制一新が必要なのは言うまでもない。

◆自主独立の軍事力を持たない限り日米同盟を基軸
 ある週刊誌が指摘していたが、内外から同盟破棄が最終目的のように捉えられてしまう。
「自主独立の軍事力を持つ事と、日米同盟の深化を同時に進める」等のように表現を変えるべきだ。
日本が覇権国家にならない限り、否なってもなお、安全保障上、大国と同盟をしない事は有り得ない。即ち、少なくとも安全保障の上では、予見し得る未来に於いて米国を取るか中国を取るかの二者択一である。
 イラク戦争等を起こした米国は、決して正義の国ではない。
しかし、外交・防衛とは相対的なものであり、大国との関係では、比較して国際的大義国益に適う方、よりマシな方を同盟相手に選ばなければならない。

 なお外交には理念・原則がなくてはならない。それが無ければブレる。ブレれば必ず負ける。例えば、「国際的大義を伴う長期的国益の追求」のようなものを確たる外交の基本理念として掲げるべきである。
 以上、引き続き「船中八策(維新八策)」の具体化・明確化と読者の「橋下ウォッチ」に役立てば幸いである。
 (KS生、千葉)


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山崎行太郎の「月刊・文藝時評」

去れ、想像力なき思想家よ。
村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち…。
 「中央公論」11月号が、突然、どういう思いつきかしれないが、「文学なんて要らない!?」という特集を組んでいるので、ちょっと立ち読みしてみたら、内田樹河野多恵子野崎歓等がそれぞれの立場から「文学の停滞」について書いているのだが、その中身があまりも馬鹿馬鹿しいというか、愚劣というか、おそらく論壇誌中央公論」で、こういう低レベルのお粗末な「文学特集」が組まれるところに、むしろ、文学の停滞というよりも現在の日本の論壇やジャーナリズムの貧困と衰弱が露呈していると言わざるを得ない、と思った。私は、かねがね、「政治や経済を語るには文学や哲学の知識や教養が欠かせない」と主張し続けているが、この程度の「文学理解」だからこそ、日本の論壇やジャーナリズム
の言説が思想的に劣化していくのは当然だろうと思う。文学も不振かもしれないが、論壇やジャーナリズムの思想的劣化はもっと深刻だと思われる。さて、この特集で、内田樹が、「文学音痴ぶり」を発揮して、「批評家が文学を殺した…」などと大口をたたいている。内田樹については、以前にも取り上げたが、その時と今回とは、言っていることが180度、異なる。前回は、「文学的思考」を、経済学や社会学などの社会科学的思考と対比した上で高く評価していたはずである。しかし、「中央公論」11月号では、こんなことを言っている。
 ≪出版関係者と話していると、みんな一様に「文学作品が売れなくなった」と言う。ベストセラーリストを見ても、ダイエット本や『○○ができるようになるための100の方法』といった本ばかりである。(中略)文学が売れないのは、けっして読者のリテラシーが劣化したからではない。作品のクオリティーが劣化しているからである。なぜそう言い切れるかと言えば、村上春樹という国内外で圧倒的なセールスを誇っている作家が現に存在しているからである。≫(「中央公論」11月号、「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」)
 私は、内田樹の粗製濫造に近い「新書」などの本も、ダイエット本とたいして変わらないと思っているが、本人にはそういう自覚はないらしい。「文学作品は売れていない。」「村上春樹は売れている。」「売れないのは読者のリテラシーに原因はなく、書き手の側のクォリティーが落ちたからだ。」…。この、誰がどう読んでも粗雑すぎる、お粗末なエッセイを読みながら、私は「笑い」を抑えきれなかった。文学の停滞や不振を語る言葉が「売れる」「売れない」であり、その具体的証拠が国際的ベストセラー作家・村上春樹である。何故、現代日本文学の停滞や不振、地盤沈下を語るのに、その思想や文体、想像力・・・と言うような文学の思想性のレベルで語ろうとしないのか。ちなみに、東浩紀は、文学
作品が「売れなくなった理由」を、むしろ積極的に評価して、ポストモダン論、オタク論、ライトノベル論とのつながりから、ネット世代やゲーム世代の読書環境や想像力の変化に求めている。「売れない」という一点にこだわる内田樹の文学停滞論が、いかに単純素朴かがわかるというものだ。ちなみに、先月号で、私は、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」だけが優遇されている最近の文芸誌の悲惨な状況について書いたが、つまり文学不振の根本原因の一つが「文壇や文芸誌の世界にホンモノの批評家がいなくなった」「村上春樹を批判する批評家が排除された・・・」ことにあると書いたが、実は、内田樹も、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」の一人である
。そもそも、専門の文芸評論家でもない内田樹の「最終講義」(「文学界」)なるものが文芸誌に掲載されたのは、何故か。内田樹が「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家」だったからだ。たとえば、文藝評論家の井口時男も、今年3月、東工大教授を退官したが、「最終講義」なるものが文芸誌に掲載されたのかどうか、私は知らない。内田樹は、専門は「仏文専攻」「フランス現代思想」だそうだが、現代日本文学にも批評にも「盲目」である。しかし、そういう文学や小説に盲目な人が歓迎されるのが最近の文芸誌である。文壇業界の最後のドル箱としての村上春樹をベタ褒めしてくれさえすれば、内田樹がいかに「文学音痴」「小説音痴」であろうとも歓迎してくれるのだ。この「中央公論」の特
集に登場している野崎歓も、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」の一人である。最近の文芸誌の誌面を飾っていする批評家の大部分は、若干の例外もないわけではないが、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」であると思って間違いない。
■批評家の不在が文学や思想を堕落させた…。
 さて、問題が何処にあるかは明らかである。内田樹が言うような、「批評家が文学を殺した」のではない。「マトモな批評家の追放・排除が文学を殺した」のである。驚くべきことに、内田樹は、「時代小説」を評価しつつ、こんなことまで言っている。
 ≪さきほど「例外的に売れているものもある」と書いたけれど、例外的に売れているものの一つは「時代小説」である。(中略)そして時代小説(に限らず中間小説や大衆小説)が純文学をしりめに隆盛を極めている理由は、そこには批評家がいないからである。純文学をここまで委縮させてしまった最大の理由は批評にあると私は思う。≫
 内田樹の「批評家が文学を殺した」という「批評家犯人説」がまったく無意味だとは思わないが、それにしてもお粗末な論理であると言うほかはない。こういう思想的レベルの劣化そのものというしかない文学論、小説論が、論壇誌で、堂々と展開されるところに、論壇やジャーナリズムの劣化がある。そもそも昔から大衆文学や中間小説は「売れる」ことを第一の目標にしているのであり、純文学は「売れる」ことを最大の目標にしないからこそ、つまり「売れ行き」という資本主義的商品交換の論理とは別の、もう一つの文学的な価値基準を持っていたからこそ、存在意義を有していたはずである。とすれば、純文学の復活は、「売れる」ことではなく、資本主義的な出版資本からの「奴隷解放」から始まると
言わなければなるまい。
 ところで、河野多恵子ぐらいは、もっと文学的な問題を指摘しているかと思ったら、彼女も、こんなことを言っている。
 ≪ところで、小説とは純文学であれ大衆文学であれ、楽しむものだとしか、私には思えない。ところが、そのどちらの場合でも、とかく〈いかに生きるべきか〉が求められているようである。日本で〈いかに生きるべきか〉が小説のテーマの中心になった始まりは、もちろん自然主義私小説である。数も少なくて互いの私生活にも通じ合っている当時の狭い文壇のなかでの作家としての生き方をテーマにすることで、〈いかに生きるべきか〉が始まったのだった。(中略)そういうわけで、今日でも純文学であれ大衆文学であれ、〈生き方の指針〉的な要素を思わせる性質のものが、実は多い。推理小説にしてさえ、そうなのである。≫(河野多恵子「小説は楽しむもの/生き方の指針ではない」)
 むろん、私は、河野多恵子のこの「小説論」「文学論」に反対である。おそらく、河野は、谷崎潤一郎三島由紀夫等の小説を念頭に置いていると思われるが、私は、谷崎や三島の小説にも「生き方の指針」のようなものを感得する。そこには、人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれている。むしろ現在の小説や文学の停滞は、「生き方の指針」となるような人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれなくなったところにあるのではないのか。先月の六万人の「脱原発デモ」で、作家の大江健三郎と批評家の柄谷行人が先頭に立っていたらしいが、作家や批評家が政治運動や市民運動、あるいは革命運動などの先頭に立つとい
うことの意義を、私は否定しない。むしろ文学が恐ろしいのは、そこに理由がある。たとえば、私はつい最近、某雑誌の企画で、「赤軍派議長」だった塩見孝也と対談したが、彼は、私が小林秀雄江藤淳に影響を受けていると話したところ、「私も彼らと感性は似ている。江藤淳の『夏目漱石』論は熱心に読んだ」と言った。私は、「やはり、そうだったのか」と思った。文学が停滞し、地盤沈下しているとすれば、原因は、むしろ「小説は楽しむもの」としか考えなくなった作家や批評家にある。「去れ、想像力なき思想家よ」(ベンヤミン)である。